あちらこちらで ~勝手に2本立て鑑賞日記~

映画館で、テレビで、美術館で……ところかまわずその週見たものたちをひとつの感想にこじつける

ソール・ライターが切り取る、「孤独なおじさん」の踊り場

 

 

2023年8月7日から8月13日までにみたもの

 

街を歩いていて、オシャレな人、キレイな人、カッコいい人が目につき「この人は何でここにいるんだろう」とか「どんな人生を歩んでいるのだろう」などと思いを馳せてしまうことがある。逆に、目を惹くようなルックをしていない「普通の」人にまなざしを向けることはなかなか難しい。

 


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渋谷駅を見下ろす場所で開催されていた写真展「ソール・ライターの原点 ニューヨークの色」に入ってすぐ並んでいたモノクロ写真たちは、そんな「普通の人」がすれ違うニューヨークの街を切り取ったものだった。

 


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いわゆる"スナップ写真"なのだろうが、ファッション雑誌でよくみる、街を背景にして或る人を主人公らしく中心に据えて撮られたものではない。誰にでも見えている劇的でない景色のなかにいる人を、多くは後ろから横からそしてしばしば顔すら移さずフレームの内に収めている。なんてことない景色だけれども、フレームの外に広がっている景色から切り離されているだけで彼・彼女は特別な存在に映り、物語のようなものが見えてくる。

 


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街の人々を映したコーナーに続いていたのが、ライターがニューヨークで出会ったアーティストたちの交流の跡を集めたコーナー。ありふれた景色を特別なもののように切りとった最初のパートの写真とは対照的に、特別な人をありふれた人間のように撮った写真がならんでいた。アンディ・ウォーホルが母と話すさりげない場面を切りとった写真には、芸術家である以前に一人の息子であるアンディのあどけない表情が写っている。そしてここでも視線はレンズを向いていない。

 

 

ファッション写真家としての作品もとい仕事を並べた次のパートにも、カメラを向いていない写真が多く残されていた。そしてしばしばいわゆる”オフショット”と呼んでも差し支えないような、モデルたちがスイッチを切った状態を隠し撮りしたようなものが誌面に残されていた。

 


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計算された構図とポージングによって特別なオーラをまとわせた完成された写真のなかに混じっていた不完全な写真のいくつかが印象に残る。そしてソール・ライターは、街の人にとっての周りの景色やアーティストやモデルのオーラといったさまざまなものを剥いでしまう才能なのではないかと思えてくる。

 

次には画家を目指していたライターが色彩感覚を発揮したいくつかの絵画と、その感覚を現実を見る目に宿らせて撮った写真が交互に展示されていた。写真が色を手に入れた時代の転換点にいた一人の芸術家の、その時代そこにいたからこそ育まれた才能を目の当たりにすることになる。写真は相変わらず街のなかの人の何気ない瞬間を切りとっているのだが、そうやってできた矩形の色づかいと画面構成が絵画のように完成されている。いきいきとした被写体の視線や足どりが、その完成された画面の外に向かっていることで、そこにまだ鮮やかな世界が広がっているのかと、奥行きならぬ「横行き」を感じる。フレームの外を「剥ぐ」ことで、四角く閉じられた世界のなかにその外にある豊かな広がりを閉じ込めてしまったような愛おしい写真たちをずっと見ていたいと思った。

 


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計画性と偶然性の両方を同時に手に入れてしまう奇跡のたまものを本当に才能と呼んでいいのか疑問に思えてしまう。すべてが「撮れてしまった」ものに過ぎないのではないかという疑念を、その奇跡のポジフィルムをつぎつぎに投影し見せつけてくるスライドが拭い去ってくれる。

 


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ありふれた街並みを特別に映す彼の目が宿った気分になる帰り道、いつも通る渋谷がいつもより彩られていて生命に満ちたものに見える。だけどそれを一枚の写真に閉じ込める”写真家”という才能の特別さをそのときのわたしは知っている。

 


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そして同時に街を歩くどの人も特別で命と物語を持った存在であることもまた知っている。その夜に聴いた「空気階段の踊り場」にメールを寄せてくれた「孤独なおじさん」たちの筆致そしてそれを読む鈴木もぐらの声に、いつもより活力がみなぎっているような気がした。

 

普段の生活では気にとめることがない他人の生活に焦点を向けてくれる点でいえば、街を舞台にしたスナップ写真とラジオの視聴者投稿は似たような役割をしている。写真家や番組によって照らされて切り取られた日常に、遠くにいる私たちがまなざしを向けあるいは耳を傾けることができる。なかでもTBSラジオで毎週月曜日24時から放送される「空気階段の踊り場」への投稿は、人間の悲喜こもごもを深夜ラジオならではの正直さでエンターテイメントに昇華させてくれる。他のお笑い芸人の番組が「はがき職人」たちによる創意工夫あふれた投稿中心に組み立てられているのにたいして、「~踊り場」のネタメールは昔から、そうでない人の投稿に興味をしめす。毎夏行われる、熱さと切なさがひと夏に詰まった思い出をサザンオールスターズの名曲「真夏の果実」に乗せて読む企画や、北野武の『菊次郎の夏』のエピソードのように暴力的な大人の世界に混ぜられた子どもの目線の思い出話を募集する企画をこれまでも行ってきた。平たい言い方をすると「世の中いろんなひとがいるなぁ」と世界の広さと人間の豊かさを感じる。

 

パートナーと離れ離れになったもぐらが、恋人どうしで自分たちのイベントに遊びに来る人がいたことに腹を立て、パートナーのいない人の味方を宣言することから始まったコーナー「孤独なおじさんいざ行かん」もまたその系譜にある。これまでのように思い出を集めるのではなく、リスナーの"いま"を報告してもらっている。対象をパートナーがおらずこのままこれからもひとりで生きていくであろう初老の男性にしぼっているので、今まで本当に気にしても来なかった「孤独なおじさん」たちの日常が鮮明になっていくのが面白い。8月7日の放送で照らされたのは「”オナ禁”をしたら体調が良くなった」おじさんや、「風俗嬢に服のにおいを褒められたものの使っている柔軟剤を答えられなかったことを恥じて、母親に洗濯のしかたを教えてもらった」おじさんなど。メールをうけてパーソナリティの水川かたまりが「駄文だなぁ(笑)」とこぼすように取るに足らないにもほどがある、希望も活力もドラマもないおじさんたちの生活のようすをもぐらの想像するおじさんの声で読み上げるだけのコーナー。彼らと比較して自分の生活を振り返ることも別になく、この社会で可視化されにくく声の小さい人々の少ないエネルギーで駆動しているささやかな生活にただ耳を傾けている。次に街でおじさんをみたとき、彼の来し方行く末が少しだけ気になるくらいの小さな変化が訪れないこともない。

 

世界の広さを知るというより、身の周りが心なしか鮮やかになっていくのはソール・ライターの写真をみたときとどこか似ている。彼の写真にもしばしば孤独なおじさんが登場する。ニューヨークの街で日常を生きている彼らの背中から、もぐらの声が聞こえてくる気がする。

 


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他者との接点がほとんどなく世界から切り離されているおじさんが、その周りの景色と彼のまなざしの先にある何かと一緒に結びついてひとつの写真に収められて、さらにお笑い芸人によって声が与えられてそれが電波に乗って世界へと広げられる。少なくともわたしの見えている世界のなかでは、もうおじさんたちは孤独じゃない。

 

 

WEEZERの「弱さ」が日本人に問う 『君たちはどう生きるか』

 

2023年7月31日から8月6日までに見たもの

 

8月はじめ、照りつける陽射しとともに私たちは、およそ80年前に日本に落ちてきたもっと近くて暑い「太陽」のことを思う。訪れた平和の大切さをかみしめるとともに、私たちは敗けた国に住んでいるのだと、たびたび思い知らされる。

 


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君たちはどう生きるか』の冒頭も、この季節にテレビの画面でよく見る火の海から始まる。眞人は、母を救いだすために火に立ち向かっていくけれども結局救い出すことはできず。「負けて」「逃げて」疎開先へやってくる。

 

新しい屋敷に立つ塔を守るアオサギの言うことには「母はまだ生きている」。そして継母の夏子も体調を崩し森の奥へ消えてしまう。死んでいるけれども生きているみたいな産んでくれた母と生きているけれども死んでしまったみたいな新しい母、どちらに会いにいくのかはっきりはしないけれども、眞人は塔を目指す。

 

塔の下に広がる「世界」では、塔のなかに迷い込んだはずのキリコ(屋敷で世話をしてくれたおばあちゃんのひとり)や産みの母の若返った姿と出会う。いろんな時間の色んな場所と扉1つで行き来できるようになっている。この映画で描かれる”マルチヴァース”は、分岐ではなくそのままの意味の多世界として横並びに存在する。そしてその世界を束ねる中心として、「下の世界」の奥にある大叔父が積み木を積んでいる。眞人はその”支配者”を継承することを拒み、”友達”と生きていくことを宣言する。そして「下の世界」は崩壊する。眞人もアオサギも、昔の母も昔のキリコも扉の向こうにある元の世界に戻っていく。中心を失ってもそれぞれの世界は残っている。行き来できなくなって離れていても、それぞれの世界が平等に存在していることを確かめながら生きていけるのなら、むしろ本当に「つながっていられる」のではないだろうか。

 

若い姿として「生きかえって」眞人の目の前に現れて別の世界で生きている産みの母と、これから育ての親となっていく夏子と、どちらも”お母さん”として眞人は向き合っていくことにする。2つのことを1つにする必要はない。ここは、生きていることも死んでいることも重なり合った世界で別の場所では私さえもう一人生きているかもしれない曖昧で混沌とした世界なのだから。

 

選ぶこと、支配すること、すなわちひとつにすることを手放すことは、大日本帝国を内からも外からも崩壊させた帝国主義と大きく距離を置く。敗戦国・ニッポンに根づいた「戦わない」遺伝子をこの映画も受け継いでいる。眞人は何とも戦わず、(2人の)母を助けるために飛び込んだ世界で、これから生まれてくる命も亡くなってしまった命も隣にある世界の広さを知り、結果喪失を乗り越えた。

 

誰のものでもなくなった世界で弱さを認め連帯していくことを、戦争があってもなくてもそこにあった原風景のなかで描いたこの映画に、日本の美を感じずにはいられなかった。

 

 

 

3年ぶりに来日したアメリカのパワーポップバンド・Weezerもそんな国を愛し、さまざまなオマージュを捧げてきた。そしてワールドツアーの一環で日本を訪れることを知り、Zepp Divercityワンマンライブに赴いた。中学生のとき好きになり、数年おきにマイブームがやってくるくらいで心のよりどころとまではしていないのだが、来日単独公演のプレスリリースに中学生の自分が飛びつき、ダメ元で最速先行に申し込んだらチケットを手に入れることができた。思えば海外アーティストの演奏を生で聴くのは初めてだったけども、ヴォーカルのリヴァース・クオモはMCで日本語を話してくれて、演奏される曲も肌になじむものばかりだから、肩を張らずに楽しめた。知っている曲だからではなく、Weezerの歌がもつ”弱々しさ”がそうさせてくれている。

 

基本的に彼らは、成し遂げられなかったことを歌う。好きなコがこっちを向いてくれない気持ちを、「チクショー!」(”dumb” / Pink triangle, ”Goddamn" / El Scorcho)と悔しがったり、うまくいかない人生に沈んだ気分に溺れては("I don't know what's wrong with me" / All My Favorite Songs)、そこから抜け出そうとしたり(”I wanna go back, yeah!” / The Good Life)。望んだ未来が訪れなかったとき、なりたい自分になれていないとき、誰かをうらやんだり打ち負かそうとしたりはせず、少しでも力が湧くようギターをかき鳴らす。Weezer流のパワー・ポップを聞くとそういう「力ずくの明るさ」をもらえる。

 

葛飾北斎風の絵をジャケットに採用し日本で局地的にヒットしたアルバム「Pinkerton」のなかから何曲も披露された。先述の「Pink triangle」、「El Scorcho」、「The Good Life」の弱さに、ニッポン人に流れる”負けた”血が騒ぐ。冒頭から温度が上がったZeppの空気を一気に涼やかにしたのが、「Across the Sea」の弾き語りだった。リヴァースが苦しんでいるときに、日本から届いたファンレターを書いてくれたひとへの思いを綴った曲であることが演奏の前にリヴァースから日本語で説明された。遠い海の向こうにいても、手紙を受け取る彼と歌を聴くファンが交わらずにつながっていく(”I've got your letter, you've got my song”)その関係の脆さと儚さは、眞人とヒミたちのそれを思い起させる。

 

彼らの歌がつなぐのは、Weezerとファンの縦の関係だけではなく、”Say It Ain't So”や”I don't care about that”(Buddy Holly)と高らかに声をそろえる観客たちの横の関係でもある。ポップなサウンドに乗せられた私たちは、わらわらのように舞い上がっていき、明日からの新しい命に生まれ変わっていく。


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宮崎駿Weezerが魅了され描いた日本が私も大好きだと、そんな原風景など何処にもない埋め立て地のうえ・お台場の街で思う。正直言って、若返った母親とのロマンスめいた冒険を”自伝的映画”にしてしまうことも、ファンからもらった手紙をよれよれになるまで舐める(「Across the Sea / Weezer)のも、「ダサくて」「気持ち悪い」と思わずにはいられない。だけどそういう弱さを認めることも「日本らしさ」のうちだ。決して他と比べて強くあろうとせず、アニメーションと音楽の力でつながるわたしたち”日本人”に、また来年もこうやって暑さを嘆いていられる余裕のある平和な夏が訪れてほしいと切実に思う。

13歳のレオとすがちゃん最高No.1が大人に『CLOSE』した話

 

 

2023年7月24日から7月30日までにみたもの

 

大人になるにつれて、子どものころの当たり前がどれだけ特殊だったかを思い知っていく。むしろ、そうやって外側の世界が流れ込んでくることそのものが、大人になる手順ともいえる。

 

 

ダメージジーンズを履いた青髪の信子と伸ばした髪をピンクに染めオーバーサイズのパーカーを着たきょんちぃの間に挟まれたチャラ男のトリオ・ぱーてぃーちゃん。二頭の暴れ馬の手綱を握る役割にみえるリーダーにこそ、脇の二人のルックスのように強烈な印象を残す身の上話があることが明かされたのが7月24日23:15から放送された「激レアさんを連れてきた」だった。

 


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両親や祖父母がさまざまな理由で次々と家を出ていき、中学一年生のときに気づいたら一人暮らしをすることになっていたすがちゃん最高No.1。料理も洗濯も知らないたったひとりの子どもが、学校の友達を介してふれる大人たちの生活から自分に必要なことを学び、周りに心配されないように普通の暮らしを装うのは苦労に満ちていたはずだが、どの話も発見のよろこびと工夫の豊かさに驚かされるばかりで楽しかった。みそ汁に出汁を入れることや洗濯機の動かし方、私たちが誰かから「そういうものだ」と教えてもらってすることを、すがちゃんは自分でその必要性に気づき、友達のお母さんの家事をのぞき見してやり方を学んでいく。MC・若林の相方で節約にこだわる春日がテレビで紹介していた”ダクト飯”(他人の家の換気扇から出てくる匂いをおかずにご飯を食べる)に、(おそらく年代的に)春日がテレビでそれを披露する前からたどりついている。

 

一人暮らしをしている仲間が周りにおらず、そのことを誰にも教えていないから、誰かに教えてもらうことができない。その寂しい状態に「狼」と名前を付けて飼いならしていたとはいえ、とても孤独な戦いだっただろう。

 

時を経て初恋の人と再会したすがちゃんは、彼女に「学生のとき、大変だったでしょう」と告げられる。誰にもバレていなかった一人暮らしのことはクラス中が言葉にせずとも共有していたらしい。自分たちには共感できない辛い出来事だから、手を差し伸べることもできないだろうと察知する子どもたちの優しさには、希望を感じる。それを言葉に出したとき彼女の目に涙が浮かんでいたとすがちゃんが話すのだから、彼の語り口とは裏腹にその辛さは明らかなほどだったのだろう。だが、ひとり暮らしのことをみんなが知っていたとわかったことは救いでもあるはずだ。誰にも明かさずっと秘めていたすがちゃんの暮らしに優しいまなざしがあることで、「狼」だった彼が優しく包まれたような感じがする。

 

人並外れた境遇を「漫画みたい」と面白がるすがちゃんも、優しさから不干渉を選んだクラスのみんなも、傷つけあわずに済んでよかった。みんな大人になってそのときの気持ちと距離ができたからできる笑い話のはずだが、子どもは強いなと感心もしてしまった。

 


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映画『CLOSE』でレオや周りの人たちが体験するのは、すがちゃんのそれとはまったく度合いが違う、大人になっても笑い話にはできない心の痛みだっただろう。

 

幼馴染のレミとずっと一緒にいたことを茶化されたのが嫌で、突き放してしまったレオ。そのわだかまりが消えぬまま、レミはこの世を去ってしまう。その理由や去り方について映画は言葉にしない。それはレミの魂と一緒に、もう触れることができないものとしてどこかに行ってしまう。他のクラスメイトと語り合うことを通して悼もうとするけれども、レオを苦しめる喪失は他のクラスメイトが抱えるものとは違うものだから、なかなかうまくいかない。そんななか、もしかしたら近いものを持っているかもしれないとレミの母・ソフィを見つめ接近していく。レオが練習するアイスホッケー場にソフィが出向いたり、レオがレミの部屋を見にソフィのいる家を訪れたり、2人の心に沈んだものを分かちあおうと近づいていくけれども、レオはなかなか言葉に出せない。

 

まだレミがいたときにそうしていたように一つのベッドで兄と体を近づけあったとき、レオはそのよくわかっていなかった気持ちを「会いたい」と象って声に出す。そしてソフィの病院まで出向き、2人きりの車内でレミがいなくなる前に何があったのかをソフィに明かす。

 

レミの死後自分を罰するようにアイスホッケーで激しく体をぶつけたときにできた骨折が治癒してギプスを外したとき、その手のぎこちなくも確実に何かを捉えた動きをみて、骨と骨だけでないすべてがひとつになったような気がした。ソフィとレオ、レオと「会いたい」の気持ち、レオとレミ……壊れたものどうしがゆっくり近づいて一つになりまた動き出すまでの、何もできないけれども待つだけではどうにもならないあの時間をわたしたちは目撃していたのだ。

 

レオもすがちゃんも、それぞれ一人暮らしと喪失といったはじめての経験を前に、周りの誰とも苦しみを共有しようとせずに、自分でその答えに近づいていった。自分のためにすることだから、真に悩めるのは自分しかいないのだけれど、大人はなんとなく誰かに共感してもらおうとなんとなくちょうどいい言葉を見つけて誰かに話したりするものだ。子どもだから言葉にできない、なんだか得体のしれないものに立ち向かった二人は、番組と映画がはじまったときより大人びて見えた。そして、彼らが大人に変わっていくのをそっと見守る周りの人たちの温かさも忘れられない。最終的にその温かさと彷徨っていた孤独とが接する瞬間のに、自分もどこかで触れてきたのだろうと思いを馳せた。

 

大人になることは、言葉にすることなのかもしれない。その手前の言葉にならない時間の愛おしさも、たまにこうして思い出していきたい。

 

 

 

『NewJeans Day On Air』の後に『FNS27時間テレビ』があった土曜と日曜

 

2023年7月17日から7月23日のあいだに見たもの

 

7月22日土曜日が始まった時、つまり金曜日の夜、暑さのせいかなかなか寝つけずにいた私は、日付変わって今日がNewJeansのデビュー日で、長時間配信をYouTube上でやっていることを思い出した。配信を開いてみると舞台裏の映像が流されていた。本人たちが話している韓国語がわからないので、いつも自分が見ている日本語字幕つきの切り抜き動画をつくっている人への感謝を今一度思い出すにとどまる。次見たときはスケジュールに入っている”Performance”にちょうど間に合うといいなと期待しながら、別のアイドルのラジオを聞いているうちにいつの間にか眠りに落ちた。

 

起きたらもう昼頃で、休憩時間に入っていた。生放送でもないのに何が休憩だと思わないでもないが、ずっと画面の前に釘づけでいようろしているファンのことを気遣ってのことなのだろう。

 

用事があってほとんど『~On Air』を見られずにいるなか、その休憩中に少しつけてみると、こちらを向いて一人で話しているミンジの映像が流れていて目を惹いた。相変わらず何を言ってるかわからないが、韓国っぽいタイポグラフィーがまったくないどうやら撮って出しの映像で、サプライズでファンに寄せられたメッセージなのだろうと推測できる。コメント欄もいろんな言語で盛り上がっていて、私と同じように興奮している人がたくさんいるのがわかってよかった。私も彼らも「このときこのために存在するNewJeans」をきっと見たかったのだ。それまでの映像に目をとめる気が起きなかったのは、新録ではあれいつ見てもいいようなものだったからだ。だから見る気が起きなかったのは、きっと言葉がわかっていても同じことだったと思う。そのときはじめて巻き戻しが可能だったことに気がついて、例の”Performance”にカーソルを合わせて「Hype Boy」の新録パフォーマンス・ビデオを見た。脱力感あるリズムとキレのあるサウンドに乗った軽やかなダンスと瑞々しい歌声は相変わらず魅力的なのだが、どこか物足りないのは、リアルタイム配信にもかかわらず”ライブ感”を欠いているからだろう。視覚中心主義で成り立つK-POPのアーティストが日本の音楽番組に出たときに、美しくて完成度が高い収録済みのものをよこしてくるけれども、”テレビ”がもたらす別の「触覚」のことも、理解してくれないだろうか。

 

結局しっかり見たのはミンジのコメントのシーンだけだった。あとからカーソルを左右させてざっとどんなことをやっているか確かめてみたけれど、そこが一番の見どころだった気がするので、ほとんど見ていない『NewJeans Day On Air』を私は「堪能した」と思う。

 

 

18時ごろまで流れていたNewJeansの配信が終わり、楽しみにしていた『FNS27時間テレビ』が18:30から始まった。仕事中だったけれども少し時間があったので、オープニングの温度だけでも味わいたくて初めの5分くらいはリアルタイム配信を開いてしまった。格闘技の試合が始まるかのような盛り上がりの中、今ここではない場所にテレビスターたちが現れる。そんな時間を共有するテレビのワクワクが詰まっていた。

 

絶対何かが起こると思っていたほいけんたのサビだけカラオケレンチャンは休憩中に追っかけ再生して声を漏らさず笑って喉が疲れたけれども、他は移動などもあり(通信量に余裕がなくてリアルタイム配信もあきらめた)ほとんど追えなかった。久々に戻った実家の、家族が寝静まったリビングで点けたテレビでは、明石家さんまが話して見たいと思った女性の話をしている。今暮らしている部屋よりずっと広いリビングで、深夜にこうやってポツンとテレビを見ていたのはそんなに昔の話ではないけど、ノスタルジーを感じた。

 

そのコーナー中汗を流したくなり(本当は風呂上がりのビールを味わいたくて)、スマホを風呂場に持っていってシャワーを浴びながら見ることにした。どうせいつでもどこでも見られると思って特になにも考えず移動したのだが、湯船のふちに乗せたスマホに映る配信では、スポーツニュースが始まった。芸人たちのいるところで、アナウンサーがニュースを読み上げるなんて映像なかなか見られなくて楽しそうと期待していたら、その部分は権利NGで配信に映らなかった。タイミングの悪さを悔いたけれども、そんな時間がどこかで行われていてそれを見て楽しんでいる人の声がSNSで確認できて嬉しかった。

 

その後の芸人だらけの深夜パートが最高だった。このご時世男だらけで、乳首だチ◯コだのお笑いをやっているのもどうかと思ったがそれでも、表面上は対決したり罵りあったりしながら、本当はみんながひとつの方向を向いて自分の仕事をこなしていく連鎖がとても楽しかった。嫌に思う人もいるようなお笑いだけど、これを見たくない人がたまたま見てしまう時間ではないから、気にせず笑える。でも、この"ワチャワチャ"は、ここに女性が混ざったとして崩れるような脆い文化では決してないはずなので、来年は少し違うものが見たいと思う自分もいた。

 

相撲が始まったあたりでうとうとし出したので、布団に向かった。テレビを見ながら寝落ちしたときのこの、見たのか見てないのかはっきりとわからない記憶が残っている感じもとても好きである。

 

墓参りに行くからと、10時ごろに起こされた。深夜に帰ってきて誰にも会っていなかったので、1ヶ月半ぶりに会った家族にかけられた言葉は「おかえり」ではなく「おはよう」だった。

 

家に帰ってから祖父母も交えて昼食を食べるまでの間、100kmマラソンのゴールと、ハロプロFC枠で観覧に応募したけど外れた鬼レンチャン歌謡祭を見られた。マラソンはスタートも見ておらず途中経過もほとんど追っていなかったけれども、自分が今見ているのと同じ空の下繰り広げられる熱いレースの顛末を見守る時間はかけがえない体験だった。タレントが頑張ってる姿に胸を打たれたわけでもなく、ハリー杉山の努力が報われたのが喜ばしかったのでももちろんなく、ただ遠くまで広がるこの夏空の先に思いを馳せる豊かさで胸がいっぱいになった。そんでほいけんたももクロのコラボはただめっちゃ笑った。

 

みんなでいっしょにほっともっとの弁当を食べる間は、大谷の野球中継を見ていた。日曜ゴールデン帯とはいえ、一番組だけのスターがもてはやされてる姿を見て楽しむのはこの時間にふさわしくないと思ったから、何の不満もなかった。

 

2時ごろからフィナーレまで、リビングのテレビはずっと8チャンを受信していた。父が自分の部屋に行ったり母が風呂に出かけたりしたが、私はずっと目の前にいた。実家を出るまでに読み切りたいワンピースの最新刊をちょこちょこ読み進めながら、おやつをつまみながら、うとうとするときもありながら、冷房の効いた部屋でダラダラ日曜日らしい時間を過ごしていた。画面のなかでも、それを許してくれるような祭り気分が少し落ち着いたいとなみが行われていた。

 

サザエさんをリアルタイムで見たのも久しぶりだった。1週間の終わりと始まりの間にかならずやってくる、日常と言うには特別すぎて、非日常と呼べるほどワクワクもしないあの時間を久々に、なじみのリビングで過ごした。祭りの渦中にいても変わることのない日常を思い出させる、フネと波平のイチャイチャと大人になりたいタラちゃんの奮闘のようすは、どこかありがたかった。MCたち(とまたしてもほいけんた)がゲスト出演した3本目を見ていて、27時間テレビ自体がユルめの時間からこれから始まるゴールデンタイムの”祭り”に戻っていくのを感じた。

 

400mサバイバルレンチャンと芸人たちによる大繩レンチャンは、やはり深夜や昼とは違って他に見ている全国の人たちを感じるような盛り上がりを見せた。父と母とパエリアを食べていたダイニングでそれを見ていた時間は、日曜日夜以外のどの時間にも感じようがなかった。その後おなかいっぱいになって漫才の時間は少し眠くなってしまったけれども、最後まで見届けた。「時代はまわる」けれども、テレビはいつまでもこのままでいてほしい。結局最後まで男性ばかり出演していたことや、なにもやらかしていない人を罰することで笑うような横暴さがまだ消えていなかったりとか、変えるべきところはいくらでもある。時代の要請にこたえていろいろな試行錯誤をしていたテレビ業界。そのなかで、テレビがテレビであることはやめないでほしいと思う。YouTubeを真似していつでもどこでも見られるようにコンテンツ化するのではなくて、その時その時間に起こっている「事件」を共有するための装置としての役割を忘れないでいてほしい。ビジネスモデルとしての限界をいくら説かれようとも、いつまでも変わらずそういう需要はあるのだから、私がテレビを忘れないようにテレビもそういう私を忘れないでほしい。

 

『NewJeans Day On Air』はほとんど視聴していないし、『FNS27時間テレビ』も結局半分の時間しか見ていない。でも「生」のメディアは、その”見ていなかった時間”も意義がある。祭りは、私のためにあるものではないと思う。どこかでたしかに広がるハレの空間と時間の存在を、遠く離れた人が「受信」する。それはその場にいなくてもありえることだ。私と、久しぶりに会った家族と、お台場のお笑い芸人たちと、全世界のNewJeansファンとつながって、どこまでも広がる世界のなかのいつか終わる時間を過ごした週末。何も手に入れてないけれど大切な2日間だった。

『ティーカップを、2つ』用意してあなたを『CURE』してあげる

 

2023年7月10日から7月17日までに見たもの


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『CURE』を見て”ホラー”だと思うのは、殺人が起こるからでも廃墟が映し出されるからでもなく、その予兆に満ちた画面のせいである。人がいないスペースまで余すことなく入ったフレームで世界は切り取られ、なかなかカットが切り替わらず注目するべき点が定まらないまま長回しが続く。そういった空間的・時間的な余白に得体のしれない予兆が呼び込まれる。それは予兆のままにとどまらず、実際に突然人がパイプによって殴られたり拳銃で撃たれたり、窓から飛び降りたりする経験を通じて、我々は同じように余白の多いカットがやってくるたびに予兆を感じる。

 ひとつひとつのシーンにおいて、そういった予兆に対する出来事が埋まっていくのと並行して、連続殺人事件のつながりは何か、全員が殺害後に同じように首をXに切り裂くのはなぜか、といった物語的な論理展開のうちに欠けた何かが埋まっていくことを期待する。しかしそこにやってくるのは間宮と呼ぶしかない、記憶も持ち物もない”空っぽ”な人物。これほどまでにパーソナリティをもたない間宮を”人間”と呼べるのかどうか怪しくなってくるが、身体でもってこちらの声を受け止めたり、声をもってこちらに語り掛けたりと最低限の人間らしさはもっているようである。『CURE』の画面演出以外がもたらす緊張感と恐怖は、殺人事件の加害者にいずれなる人々や高部、そして傍観者であるはずの私たちに「空白」(=間宮)が入り込んでくるのを感じるからだ。間宮と出会った人物たちのやりとりの一連は始め長回しでとらえられ、その持続する緊張感のなかで間宮は空間を浮遊するように行き来し、それを体なり視線なりで追いかけていく。そして接近したところでライターの火や水に視線を集中させ、自らの声で相手を包み込むように語りかける。それがのちに催眠であったとわかる。

 いくつか後のカットで、教師も警官も医師も、殺人をあっけなく遂げてしまう。そのあっけなさは、本来強烈な経験となるはずの記憶が残らない殺人者たちの内面の様子でもあり、ためらいも決断の瞬間も全く映らないその殺人シーンの外から見える印象のどちらにも感じられる。はじめ役割を持った社会的な人間として間宮に向かい合っていた人々が、間宮に催眠を施された後は、まるで"人の形をしたなにか"のように目の輝きを奪われ、簡単に人を殺せるようになってしまう。クライマックスで高部が間宮に銃弾を撃ち込むときも、それが殺人であることを感じさせず「黙れ!」の言葉を伴う「しつけ」のうちであるかのようなあっけなさである。

 ”CURE”=”治療”は、異常を正常にする過程のことである。ファースト・シーンで高部の妻がカウンセリングを受ける精神病棟にはじまり、ラスト・シーンのそこで間宮の信奉する明治期の医師(または医学者)の痕跡が残された建物をはじめ、他のいくつもの場面で舞台となる”病院”の背景から、この映画で起こる変化はすべて”治療”で、間宮に催眠をかけられた人たちのように空っぽにされてしまうことが正常になることなのではないかと不安に思えてくる。終盤で妻の主治医に告げられるように、妻の病気や刑事としての責任などさまざまなものを背負った高部のほうが「異常」で間宮のほうが「正常」なのではないかと思えてくる。

 映画を通して迫りくる間宮という「空白」によって、過去と現在を背負った人間であることをはく奪させられ、生活感がこそぎとられてしまったあれらの廃墟空間のように空っぽにさせられてしまう恐怖が予兆のまま終わったことに安堵し、幕が閉じた。

 


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間宮とのあいだのコミュニケーションの通じなさにイライラするのは、今がいつでどこにいるとか、お互いが何者であるといった”前提”を共有できていないからだ。

 草月ホールで単独公演を行った吉住のコントに出てくる人物もそういった”前提”を、吉住が演じる人物が語り掛けるもうひとり及び観客たちと共有できていない。1本目の「約束を守る女」は、”友達とのランチのようないつでもこなせる予定より、誘拐された兄のため身代金を渡すことを優先するべき”という前提を私たちと共有しておらず、代わりに”約束はすべて遂行するべき”という前提にしたがってに友達とのランチに大金の入ったカバンを持ってくる。2本目の「寮母」は、”寮母は選手たちが健やかに育てるように”食事面を献身的に支えることをよそに、”良い選手を育てて輩出する”ために選手たちを支配し行動を強制する。他のコントでも、愛犬家に相応しい行動を徹底する女、金銭的な利益を求めることに執着する巫女や、署名を集める女というように目的にまっすぐすぎていろいろな常識や他者への共感を捨ててしまった人物が演じられる。

 『CURE』では間宮との間に生じるディスコミュニケーションが良からぬことが起こる”予兆”を生み出していたのに、吉住の演じる”話の通じない”女たちの一挙一動がホラーに結しないのは、「お笑い芸人のライブ」のパッケージでそれらを見させられていることも大きいが、間宮と対照的に彼女たちが”余剰”な振る舞いをするからでもあるのではないか。”空っぽ”な間宮と対照的に、女たちは一貫した行動原理を持っている。というか持ちすぎている。そういう人に対面して、間宮のような空白に吸い寄せられ飲み込まれていくことはなく、むしろ勝手に突っ走って話の通じないところまでいって行ってしまう。もう笑うしかない空白が、私たちのほうに残されているような感覚だ。

 それを強く感じるのがオープニング開けて1本目のコント「約束を守る女」だ。前述した常識の通じなさを理解させられた後も彼女は、「幸せを約束する壺」なら躊躇なく買うと言い出したり、兄が解放された一報を聞いて「壺のおかげで幸せになった」と感謝してきたり、私たちはその間一回も共感することなく彼女の「約束」は果たされ、目的を達成した彼女は喜ぶ。後のコントではたった一人でショーを続けていく都合上、スライドを用いたり暗転や照明の変化によって舞台にメリハリを持たせていたけれども、1本目だけは徹頭徹尾一人の体と小道具だけで話を展開させた。その圧倒的な「速さ」にあっけにとられていくうちに、『ティーカップを、2つ』はただものではない単独公演であることを確信させられていく。

 

 最後のコントで演じられる女は、これまでの女たち同様彼女の常識をなかなか押し付けてくることなく、ただの駅員であるように振る舞っていく。平たくいえば"まとも"な女が初めて出てきたように見えた。しかし、聞けば彼女も”駅の平和を守る”目的意識から、"裏駅員"なる者たちを駅に放つやりすぎな1面をもつ人物であることがわかる。その"極度に変な人物を目の当たりにさせ、迷惑をかけようとする者の目を覚まさせる"モチベーションは、彼女がここまで「間違っている」人間を演じて見せつづけた意義を表明しているかのように感じたけれども、それは考えすぎだろう。どんな意図があったにせよ、世間とズレた前提を基づいた過剰な行動を見せて、「わたしはまともだ」と思う体験は、"裏駅員"をみた迷惑(になりかけた)客と共有しているだろう。

 女たちはその"迷惑客"の一部でもあったことが明かされ、駅員の女は彼女たちを束ねるコンダクターとして他の女のひとつ外側にいる存在であることがわかる。そして裏駅員を束ねる女が、姉殺しの犯人を捜してそれまでのコントの女たちと接点を持ってきたとが明かされ、このコント自体もすべての物語の結束点であり終着点となる。『CURE』のチラシの裏に書かれた”狂気は狂人のものではなく、普通の人間の行動の中に潜んでいる”を体現するように、結局女たちは無罪で、姉の婚約者が犯人であるとわかる。復讐への意識が過剰になり元婚約者を殺そうとする妹は、裏駅員たちの行動をみて我に返る。『CURE』の殺人機械となり果てた者たちとは異なり、彼女には殺す理由がある。殺す理由があるならば生かす理由がある。そして相手に付すのと同等の命の価値を自らにも見出し、生きていく理由もできる。”狂人”たちは、正しくないかもしれないけれど、迷惑をかけるかもしれないけれど、誰かを生きさせることができるかもしれない。吉住がコントをすることも、そのコントの女たちが生きてることにも、意味はない。だがひとつ「人間はおもしろい」と思えたら、生きてく意味はあるように思えてくる。

 

吉住に憑依して目の前で熱く自らの正しさを説く女たちには、黒沢清のカメラによって温度を奪われた人間とは真逆の怖さを感じる。しかし、生きる理由があって空っぽではない彼女たちは、”生きる”一本道を進んでいく。その背中はどこかおかしいけれども間違ってはいない。「忍び寄る空白」の怖さの映画と、「走り去る余剰」の可笑しさのコントを通して、人間の本質を垣間見た気がする。

 

『君は放課後インソムニア』でユースケは卒業後ガーリックエリシズム

 

2023年6月26日から7月2日までに見たもの
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若く青い人はたいてい、「こいつといる時間をどうしようか」と時間の使い方を考える。学校に行けば仲間がいて、休み時間も放課後も与えられた場所と時間があって、それらを最大限に利用してかけがえのない時間を移ろいゆく身体に刻もうとする。そして学校が閉まってそこから解放されたあとの夜は、ご飯を食べたり眠ったり"明日のために"使う。

 だが『君は放課後インソムニア』の伊咲と丸太にとって夜はそういうものではない。夜に眠れず、昼に眠くなるせいで周りと違う時間の使い方をしなければならない彼らは、昼も夜も孤独に過ごす。彼らに安らかな夜が決してやってこない理由からして、それをひとりで食いつぶすこともできない。親が出ていって一人になること、または心臓が止まって死ぬことといった夜より深い孤独に怯える2人にとって、その孤独をなんとかすることは、昼を生きる同級生たちがありあまるエネルギーと帰るまでの時間をどうするかよりずっと切実な問題である。気の合う仲間とつるむ場所としてその時間を選ぶのではなくて、ありあまる夜を使いきるために伊咲と丸太は手を取り合った。高校生に夜の場所は用意されない。だから天文部をつくって、天文台と夜を自分たちの場所として守っていくことを決めた。

 

親とのコミュニケーションが欠けていること、心臓に仕切りが足りないこと。欠けているものそのものを埋めることはお互いにできない。むしろ2人が思うように進もうとするとき、それらは相変わらず障壁のままである。それでも、夜という場所を守るために、2人は手を取り合う。

 

夜の街と夜空、高校生にとっては世界の裏側としか言えないその場所を手に入れた彼らは、最終的に「やりたいことがたくさんある」と思えるようになる。欠いているところからありあまるところへ。同級生たちと同じように晴れ空の下ではないけれども、たしかにみずみずしい"青春"を2人は見つけた。

 

 

 

 

アメトーークに集められた芸人たちも、周りの同級生たちとは違う時間に青春を送っている人たちだ。学校に集まりあふれるエネルギーをどう使おうということに留まらず、学校を卒業して"大人"になっても一緒にいることを選んだ人たち。冬休み、一人の友達のためだけにボケを詰め込んだ年賀状を送る囲碁将棋・文田。同じく一人のもとにしか残らないページに自分の生きた証を残すAマッソ・加納。青春とは"ありあまる"ことだとつくづく思う。一方、卒業アルバムにラーメンにニンニクを入れると美味しいことを津田に教えてもらったユースケは、今でもラーメンにニンニクを入れるたびに"つだっちん"の顔を思い出すという。その吸収しやすさ=欠落もまたこの季節を象徴している。些細な瞬間だが、一生かけてその瞬間を体験しつづけるまでにつだっちんがゆーきゃんに入り込んでいる。サッカーを一緒に練習するための仲間として、本質的には"人数あわせ"として出会った2人とは思えない浸食ぐあい。元はといえば、『君は放課後インソムニア』の2人だって、不足としての孤独を埋めるための仲間だったのが、ふたりならどこへでもと思える仲になっている。

 

集められた場所で与えられた時間を消費することではなく、その人と会うために時間も場所もつくるくらいかけがえのないパートナーたちの姿を今週は色々なところで目にした。みんな笑っていた。

 

 

 

『TAR』と竹内朱莉、2人の「指揮者」の”壊れる”ところ

 

2023年6月19日から6月25日までに見たもの

 


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 音楽家としての華麗な経歴を紹介され、大勢の観客の前に堂々と出ていくリディア・ター。しかしその向かった先のステージで行われたのは、オーケストラによる演奏ではなく、専門的なトークイベントだった。そこから先も、”オーケストラの指揮者の映画”ときいて想像するような身体ごと震わせるような迫力ある演奏シーンはなかなかやってこない。暗い部屋の中、何かから隠れるように孤独に音楽と向き合ったり、同業者と感情を抑えたインテリジェントな会話をしたり、演奏シーンこそないが、統制された静かなリズムをもって淡々と進んでいく。

 この映画で映し出される空間は、一人の時間はもちろん、誰かといる場合でもターによって「指揮」されているように感じられてくる。それは表層的なレヴェルでいえば、窓の外の曇り空による画面の抜けの悪さとセレブリティがゆえの環境音の少ないロケーションによって演出されていて、そこに加えて観客たちが、音楽賞を総ナメした名声と世界最高峰のフィルハーモニーの首席指揮者の地位といった記号的な支配力を彼女に与えたうえでスクリーンに向き合うことで完成される。

 音楽のない場所でも彼女の”指揮”のもとに置かれる弟子やパートナー、生徒たちそして観客たちは150分の映画のなかで、その閉塞的な関係にたいして不快感を覚えるようになり、表面化しない不満がサスペンスを積み重ねていく。演出と主演による繊細な共同作業によってつくられてきた苦しい世界は終盤、そのカメラでとらえられていたのとは別の角度からターを捉えた映像が導入されることによって崩壊していく。そこに映っていたのが”悪意ある切り取り”と思ってしまう時点で映画の観客はまだターの振る指揮棒のリズムにとらわれている。権力を利用して教え子を自殺までに追い詰めたことやオーケストラに入ってきた新人を贔屓すること、本当に彼女は不当な支配をしていたのか客観的な判断が下せずにいるまま、”リディア・ター”に背負わされたさまざまな重しによって、いとも簡単に崖を転がり落ちていってしまう。

 裏返ってしまったように自らに牙をむく欧米の空気から離れて赴いたアジアの端っこでも彼女は、また同じように人も空気も手に取ったようにタクト1本で思いのままにできるようになっていくのだろう。そこまで信頼をおいてしまう心理的な支配から、私は結局出ていくことはできない。


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 竹内朱莉アンジュルムを4年の間リーダーとしてまとめ上げてきた。後輩から「竹内さん」と一応は呼ばれるけれども、「タケちゃん!」とみんなから呼ばれていても違和感ないような柔らかさとファンキーさが特徴だ。最大10歳も離れたメンバーたちを束ねてきた秘訣について、他のグループの年長者に聞かれたときに答えた「とにかく遊ぶ」というポリシーが象徴的である。一人のパフォーマーとして、タレントとして、女性としてまた人間として、自分の背中を追ってくるように上からあれこれ指図するだけのいわれも持ちうる助言も枚挙にいとまがないだろうが、彼女はそういったリーダーシップのかたちをとらなかった。グループの一員として同じ目線で、肩を組んで苦しいことに立ち向かう。それがきっと彼女にとっても居心地のいい状態で、ともに歩む後輩メンバーたちも「家族のよう」と評するように垣根のない集団がつくられてきた。

 そんな彼女が決して権力と責任を放棄してただ遊んでいるわけがないのも誰の目にも明らかである。彼女は徹底して「笑顔を絶やすな」と命令する。これは竹内リーダーだけがしてきたことではないのだが、アンジュルムはライブ開演直前に円陣を組む際、歴代リーダー(歴代といっても竹内と先代の和田彩花の二人のみだが)が「Keep your?」と呼びかけた後、全員で「Smile!!」と大きく声に出す掛け声を出している。それはスマイレージ(Smilage)としてデビューした歴史を背負ったアンジュルムの合言葉のようなものである。ただ「Keep your smile」とリーダーが一方的に提示するのではなく、メンバー全員で同じ言葉を紡ぐのが彼女たちらしいが、その発端となって命令形の部分を言うのはリーダーだけで、逆にそれだけがアンジュルムのリーダーの仕事と言えるかもしれない。彼女が自身の卒業を、公に発表する前にメンバーに伝えたとき、そのショックに多くのメンバーが泣き崩れるのをみて、台に乗ってジャンボリーミッキーを踊って元気づけようとしたところ、台から落ちて爆笑が起こったという。笑わせたくて行動を起こしたけれど、アクシデントも交えることで笑わせる側と笑う側の垣根を取っ払うところに、どこまでも抜かりない”アンジュルムのリーダー”力が表れている。

 彼女の卒業ライブを見に集まった観客たちにその「Keep your Smile!!」は聞こえておらず、そんな心得を共有していなかったけれども、自然と笑顔にさせられた。卒業記念に出版された写真集や、これまでの活動を振り返るインタビューに目を通していたファンは、その喪失の大きさに向き合わされむしろ泣く準備万全で来ていたはずだ。しかし選曲とパフォーマンスを通じて「Keep your Smile!」と私たちを楽しませてくれる。中期のハードロック調の曲から幕を開けて一気に会場のボルテージを上げ、現メンバーを中心に磨き上げてきた最近の曲で”最強アンジュルム”を見せつける。初期のスマイレージ曲は、卒業ライブで聴くと過ぎ去った季節の青さが感傷を誘うけれども、会場を満たす多幸感で結局頬が緩む。

 どうやらこれは泣かせてくれないぞとあちらの意気込みを理解し始めたころ、思ったより早く訪れた卒業パート。竹内の卒業曲「同窓生」とアンジュルム定番の送り出しソング「交差点」で、メンバーそれぞれと目を合わせてそれぞれのソロパートを聞く彼女の目に涙が浮かんだとき、なんだか嬉しかった。その涙はアイドルの肩書を捨てて一人歩んでいく不安の表れでも、辛かった日々から解放されることにたいする安堵でもありえず、その空間に漂う大きな愛のすべてが彼女の心を温めて融けだしたものに違いなかったからである。「Keep your Smile!」とはっぱをかけ自ら率先してそれを実行してきた彼女の長いアイドル人生を祝福し、けっして軽くはなかっただろう荷を下ろして身軽に次の場所ではばたくための羽根が広がったのを、私たちはみていた。

 それでコンサートを閉じないのも明らかに意図あってのことだ。仕切り直しと言わんばかりにまた横浜アリーナアンジュルムを楽しむ場所にもどった。アンコールを挟んでソロ曲を披露しサクッと挨拶をすませたら、最後までタケちゃんとしてアンジュルムを底から支え、自身が一番心の底から楽しみ、走り去っていった。後ろから背中を押してくれるリーダーの背中はあまり見たことがなかったからだろうか、最後の最後にステージの奥に向かって走り去っていく彼女の背中を見るのははいくらなんでも寂しすぎた。

 最後の最後まで竹内リーダーに指揮されるままに、アンジュルムがいる空間で心を動かされてきた。そしてその見えない力がこれまでもあったことを知り、その喪失の大きさにいっそうぽっかり穴が開いた気分になる。だが、最年長でも最長在籍者でもない上國料萌衣がバトンを受けた時点で、その精神を受け継いでいないわけはなく、何よりこれまでの彼女を見ていれば、SmileがKeepされるのは明らかだ。そうして結局次の日からも私たちは不安なく笑顔で過ごすことになる。

 

 貶められたターが惨めで、前向きなスタートを切れたタケちゃんが優れているという話ではない。どちらも周りの世界の指揮者として、重責を負いながら戦ってきた偉大さがある。タケちゃんだって最後は「敗れて」涙して終わった。彼女たちがこわれたところをみたカタルシスの大きさがそれを物語っている。