あちらこちらで ~勝手に2本立て鑑賞日記~

映画館で、テレビで、美術館で……ところかまわずその週見たものたちをひとつの感想にこじつける

『ティーカップを、2つ』用意してあなたを『CURE』してあげる

 

2023年7月10日から7月17日までに見たもの


f:id:eggscore:20230722184443j:image

『CURE』を見て”ホラー”だと思うのは、殺人が起こるからでも廃墟が映し出されるからでもなく、その予兆に満ちた画面のせいである。人がいないスペースまで余すことなく入ったフレームで世界は切り取られ、なかなかカットが切り替わらず注目するべき点が定まらないまま長回しが続く。そういった空間的・時間的な余白に得体のしれない予兆が呼び込まれる。それは予兆のままにとどまらず、実際に突然人がパイプによって殴られたり拳銃で撃たれたり、窓から飛び降りたりする経験を通じて、我々は同じように余白の多いカットがやってくるたびに予兆を感じる。

 ひとつひとつのシーンにおいて、そういった予兆に対する出来事が埋まっていくのと並行して、連続殺人事件のつながりは何か、全員が殺害後に同じように首をXに切り裂くのはなぜか、といった物語的な論理展開のうちに欠けた何かが埋まっていくことを期待する。しかしそこにやってくるのは間宮と呼ぶしかない、記憶も持ち物もない”空っぽ”な人物。これほどまでにパーソナリティをもたない間宮を”人間”と呼べるのかどうか怪しくなってくるが、身体でもってこちらの声を受け止めたり、声をもってこちらに語り掛けたりと最低限の人間らしさはもっているようである。『CURE』の画面演出以外がもたらす緊張感と恐怖は、殺人事件の加害者にいずれなる人々や高部、そして傍観者であるはずの私たちに「空白」(=間宮)が入り込んでくるのを感じるからだ。間宮と出会った人物たちのやりとりの一連は始め長回しでとらえられ、その持続する緊張感のなかで間宮は空間を浮遊するように行き来し、それを体なり視線なりで追いかけていく。そして接近したところでライターの火や水に視線を集中させ、自らの声で相手を包み込むように語りかける。それがのちに催眠であったとわかる。

 いくつか後のカットで、教師も警官も医師も、殺人をあっけなく遂げてしまう。そのあっけなさは、本来強烈な経験となるはずの記憶が残らない殺人者たちの内面の様子でもあり、ためらいも決断の瞬間も全く映らないその殺人シーンの外から見える印象のどちらにも感じられる。はじめ役割を持った社会的な人間として間宮に向かい合っていた人々が、間宮に催眠を施された後は、まるで"人の形をしたなにか"のように目の輝きを奪われ、簡単に人を殺せるようになってしまう。クライマックスで高部が間宮に銃弾を撃ち込むときも、それが殺人であることを感じさせず「黙れ!」の言葉を伴う「しつけ」のうちであるかのようなあっけなさである。

 ”CURE”=”治療”は、異常を正常にする過程のことである。ファースト・シーンで高部の妻がカウンセリングを受ける精神病棟にはじまり、ラスト・シーンのそこで間宮の信奉する明治期の医師(または医学者)の痕跡が残された建物をはじめ、他のいくつもの場面で舞台となる”病院”の背景から、この映画で起こる変化はすべて”治療”で、間宮に催眠をかけられた人たちのように空っぽにされてしまうことが正常になることなのではないかと不安に思えてくる。終盤で妻の主治医に告げられるように、妻の病気や刑事としての責任などさまざまなものを背負った高部のほうが「異常」で間宮のほうが「正常」なのではないかと思えてくる。

 映画を通して迫りくる間宮という「空白」によって、過去と現在を背負った人間であることをはく奪させられ、生活感がこそぎとられてしまったあれらの廃墟空間のように空っぽにさせられてしまう恐怖が予兆のまま終わったことに安堵し、幕が閉じた。

 


f:id:eggscore:20230722184458j:image

 

間宮とのあいだのコミュニケーションの通じなさにイライラするのは、今がいつでどこにいるとか、お互いが何者であるといった”前提”を共有できていないからだ。

 草月ホールで単独公演を行った吉住のコントに出てくる人物もそういった”前提”を、吉住が演じる人物が語り掛けるもうひとり及び観客たちと共有できていない。1本目の「約束を守る女」は、”友達とのランチのようないつでもこなせる予定より、誘拐された兄のため身代金を渡すことを優先するべき”という前提を私たちと共有しておらず、代わりに”約束はすべて遂行するべき”という前提にしたがってに友達とのランチに大金の入ったカバンを持ってくる。2本目の「寮母」は、”寮母は選手たちが健やかに育てるように”食事面を献身的に支えることをよそに、”良い選手を育てて輩出する”ために選手たちを支配し行動を強制する。他のコントでも、愛犬家に相応しい行動を徹底する女、金銭的な利益を求めることに執着する巫女や、署名を集める女というように目的にまっすぐすぎていろいろな常識や他者への共感を捨ててしまった人物が演じられる。

 『CURE』では間宮との間に生じるディスコミュニケーションが良からぬことが起こる”予兆”を生み出していたのに、吉住の演じる”話の通じない”女たちの一挙一動がホラーに結しないのは、「お笑い芸人のライブ」のパッケージでそれらを見させられていることも大きいが、間宮と対照的に彼女たちが”余剰”な振る舞いをするからでもあるのではないか。”空っぽ”な間宮と対照的に、女たちは一貫した行動原理を持っている。というか持ちすぎている。そういう人に対面して、間宮のような空白に吸い寄せられ飲み込まれていくことはなく、むしろ勝手に突っ走って話の通じないところまでいって行ってしまう。もう笑うしかない空白が、私たちのほうに残されているような感覚だ。

 それを強く感じるのがオープニング開けて1本目のコント「約束を守る女」だ。前述した常識の通じなさを理解させられた後も彼女は、「幸せを約束する壺」なら躊躇なく買うと言い出したり、兄が解放された一報を聞いて「壺のおかげで幸せになった」と感謝してきたり、私たちはその間一回も共感することなく彼女の「約束」は果たされ、目的を達成した彼女は喜ぶ。後のコントではたった一人でショーを続けていく都合上、スライドを用いたり暗転や照明の変化によって舞台にメリハリを持たせていたけれども、1本目だけは徹頭徹尾一人の体と小道具だけで話を展開させた。その圧倒的な「速さ」にあっけにとられていくうちに、『ティーカップを、2つ』はただものではない単独公演であることを確信させられていく。

 

 最後のコントで演じられる女は、これまでの女たち同様彼女の常識をなかなか押し付けてくることなく、ただの駅員であるように振る舞っていく。平たくいえば"まとも"な女が初めて出てきたように見えた。しかし、聞けば彼女も”駅の平和を守る”目的意識から、"裏駅員"なる者たちを駅に放つやりすぎな1面をもつ人物であることがわかる。その"極度に変な人物を目の当たりにさせ、迷惑をかけようとする者の目を覚まさせる"モチベーションは、彼女がここまで「間違っている」人間を演じて見せつづけた意義を表明しているかのように感じたけれども、それは考えすぎだろう。どんな意図があったにせよ、世間とズレた前提を基づいた過剰な行動を見せて、「わたしはまともだ」と思う体験は、"裏駅員"をみた迷惑(になりかけた)客と共有しているだろう。

 女たちはその"迷惑客"の一部でもあったことが明かされ、駅員の女は彼女たちを束ねるコンダクターとして他の女のひとつ外側にいる存在であることがわかる。そして裏駅員を束ねる女が、姉殺しの犯人を捜してそれまでのコントの女たちと接点を持ってきたとが明かされ、このコント自体もすべての物語の結束点であり終着点となる。『CURE』のチラシの裏に書かれた”狂気は狂人のものではなく、普通の人間の行動の中に潜んでいる”を体現するように、結局女たちは無罪で、姉の婚約者が犯人であるとわかる。復讐への意識が過剰になり元婚約者を殺そうとする妹は、裏駅員たちの行動をみて我に返る。『CURE』の殺人機械となり果てた者たちとは異なり、彼女には殺す理由がある。殺す理由があるならば生かす理由がある。そして相手に付すのと同等の命の価値を自らにも見出し、生きていく理由もできる。”狂人”たちは、正しくないかもしれないけれど、迷惑をかけるかもしれないけれど、誰かを生きさせることができるかもしれない。吉住がコントをすることも、そのコントの女たちが生きてることにも、意味はない。だがひとつ「人間はおもしろい」と思えたら、生きてく意味はあるように思えてくる。

 

吉住に憑依して目の前で熱く自らの正しさを説く女たちには、黒沢清のカメラによって温度を奪われた人間とは真逆の怖さを感じる。しかし、生きる理由があって空っぽではない彼女たちは、”生きる”一本道を進んでいく。その背中はどこかおかしいけれども間違ってはいない。「忍び寄る空白」の怖さの映画と、「走り去る余剰」の可笑しさのコントを通して、人間の本質を垣間見た気がする。