ソール・ライターが切り取る、「孤独なおじさん」の踊り場
2023年8月7日から8月13日までにみたもの
街を歩いていて、オシャレな人、キレイな人、カッコいい人が目につき「この人は何でここにいるんだろう」とか「どんな人生を歩んでいるのだろう」などと思いを馳せてしまうことがある。逆に、目を惹くようなルックをしていない「普通の」人にまなざしを向けることはなかなか難しい。
渋谷駅を見下ろす場所で開催されていた写真展「ソール・ライターの原点 ニューヨークの色」に入ってすぐ並んでいたモノクロ写真たちは、そんな「普通の人」がすれ違うニューヨークの街を切り取ったものだった。
いわゆる"スナップ写真"なのだろうが、ファッション雑誌でよくみる、街を背景にして或る人を主人公らしく中心に据えて撮られたものではない。誰にでも見えている劇的でない景色のなかにいる人を、多くは後ろから横からそしてしばしば顔すら移さずフレームの内に収めている。なんてことない景色だけれども、フレームの外に広がっている景色から切り離されているだけで彼・彼女は特別な存在に映り、物語のようなものが見えてくる。
街の人々を映したコーナーに続いていたのが、ライターがニューヨークで出会ったアーティストたちの交流の跡を集めたコーナー。ありふれた景色を特別なもののように切りとった最初のパートの写真とは対照的に、特別な人をありふれた人間のように撮った写真がならんでいた。アンディ・ウォーホルが母と話すさりげない場面を切りとった写真には、芸術家である以前に一人の息子であるアンディのあどけない表情が写っている。そしてここでも視線はレンズを向いていない。
ファッション写真家としての作品もとい仕事を並べた次のパートにも、カメラを向いていない写真が多く残されていた。そしてしばしばいわゆる”オフショット”と呼んでも差し支えないような、モデルたちがスイッチを切った状態を隠し撮りしたようなものが誌面に残されていた。
計算された構図とポージングによって特別なオーラをまとわせた完成された写真のなかに混じっていた不完全な写真のいくつかが印象に残る。そしてソール・ライターは、街の人にとっての周りの景色やアーティストやモデルのオーラといったさまざまなものを剥いでしまう才能なのではないかと思えてくる。
次には画家を目指していたライターが色彩感覚を発揮したいくつかの絵画と、その感覚を現実を見る目に宿らせて撮った写真が交互に展示されていた。写真が色を手に入れた時代の転換点にいた一人の芸術家の、その時代そこにいたからこそ育まれた才能を目の当たりにすることになる。写真は相変わらず街のなかの人の何気ない瞬間を切りとっているのだが、そうやってできた矩形の色づかいと画面構成が絵画のように完成されている。いきいきとした被写体の視線や足どりが、その完成された画面の外に向かっていることで、そこにまだ鮮やかな世界が広がっているのかと、奥行きならぬ「横行き」を感じる。フレームの外を「剥ぐ」ことで、四角く閉じられた世界のなかにその外にある豊かな広がりを閉じ込めてしまったような愛おしい写真たちをずっと見ていたいと思った。
計画性と偶然性の両方を同時に手に入れてしまう奇跡のたまものを本当に才能と呼んでいいのか疑問に思えてしまう。すべてが「撮れてしまった」ものに過ぎないのではないかという疑念を、その奇跡のポジフィルムをつぎつぎに投影し見せつけてくるスライドが拭い去ってくれる。
ありふれた街並みを特別に映す彼の目が宿った気分になる帰り道、いつも通る渋谷がいつもより彩られていて生命に満ちたものに見える。だけどそれを一枚の写真に閉じ込める”写真家”という才能の特別さをそのときのわたしは知っている。
そして同時に街を歩くどの人も特別で命と物語を持った存在であることもまた知っている。その夜に聴いた「空気階段の踊り場」にメールを寄せてくれた「孤独なおじさん」たちの筆致そしてそれを読む鈴木もぐらの声に、いつもより活力がみなぎっているような気がした。
普段の生活では気にとめることがない他人の生活に焦点を向けてくれる点でいえば、街を舞台にしたスナップ写真とラジオの視聴者投稿は似たような役割をしている。写真家や番組によって照らされて切り取られた日常に、遠くにいる私たちがまなざしを向けあるいは耳を傾けることができる。なかでもTBSラジオで毎週月曜日24時から放送される「空気階段の踊り場」への投稿は、人間の悲喜こもごもを深夜ラジオならではの正直さでエンターテイメントに昇華させてくれる。他のお笑い芸人の番組が「はがき職人」たちによる創意工夫あふれた投稿中心に組み立てられているのにたいして、「~踊り場」のネタメールは昔から、そうでない人の投稿に興味をしめす。毎夏行われる、熱さと切なさがひと夏に詰まった思い出をサザンオールスターズの名曲「真夏の果実」に乗せて読む企画や、北野武の『菊次郎の夏』のエピソードのように暴力的な大人の世界に混ぜられた子どもの目線の思い出話を募集する企画をこれまでも行ってきた。平たい言い方をすると「世の中いろんなひとがいるなぁ」と世界の広さと人間の豊かさを感じる。
パートナーと離れ離れになったもぐらが、恋人どうしで自分たちのイベントに遊びに来る人がいたことに腹を立て、パートナーのいない人の味方を宣言することから始まったコーナー「孤独なおじさんいざ行かん」もまたその系譜にある。これまでのように思い出を集めるのではなく、リスナーの"いま"を報告してもらっている。対象をパートナーがおらずこのままこれからもひとりで生きていくであろう初老の男性にしぼっているので、今まで本当に気にしても来なかった「孤独なおじさん」たちの日常が鮮明になっていくのが面白い。8月7日の放送で照らされたのは「”オナ禁”をしたら体調が良くなった」おじさんや、「風俗嬢に服のにおいを褒められたものの使っている柔軟剤を答えられなかったことを恥じて、母親に洗濯のしかたを教えてもらった」おじさんなど。メールをうけてパーソナリティの水川かたまりが「駄文だなぁ(笑)」とこぼすように取るに足らないにもほどがある、希望も活力もドラマもないおじさんたちの生活のようすをもぐらの想像するおじさんの声で読み上げるだけのコーナー。彼らと比較して自分の生活を振り返ることも別になく、この社会で可視化されにくく声の小さい人々の少ないエネルギーで駆動しているささやかな生活にただ耳を傾けている。次に街でおじさんをみたとき、彼の来し方行く末が少しだけ気になるくらいの小さな変化が訪れないこともない。
世界の広さを知るというより、身の周りが心なしか鮮やかになっていくのはソール・ライターの写真をみたときとどこか似ている。彼の写真にもしばしば孤独なおじさんが登場する。ニューヨークの街で日常を生きている彼らの背中から、もぐらの声が聞こえてくる気がする。
他者との接点がほとんどなく世界から切り離されているおじさんが、その周りの景色と彼のまなざしの先にある何かと一緒に結びついてひとつの写真に収められて、さらにお笑い芸人によって声が与えられてそれが電波に乗って世界へと広げられる。少なくともわたしの見えている世界のなかでは、もうおじさんたちは孤独じゃない。