あちらこちらで ~勝手に2本立て鑑賞日記~

映画館で、テレビで、美術館で……ところかまわずその週見たものたちをひとつの感想にこじつける

『白鍵と黒鍵の間に』ある音を聴いて、山﨑夢羽はリズムに乗って

 

 

2023年10月30日から11月5日までにみたもの

 

耳で感じる刺激に心地よさを感じるのは、音楽を聴いている時だけではない。リズムやメロディーというのは、譜面のうえに記されていないものにだってある。目の前にあるものが持つ”流れ”に身体と心をゆだねるときに、音楽は始まると私は思う。


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白熱灯の暖かい光がたばこの煙を照らして、オレンジ色にかすみがかった空気。平成生まれの私はその匂いを知らないけれど、多くは古い映画のフィルムに焼き付けられたその景色を見ると”懐かしさ”を感じるようになってしまった。『白鍵と黒鍵の間に』に映る銀座のキャバレーはまさにそういった時代の景色だった。だがこの映画の銀座はその臭さのしない、澄んでいてスタイリッシュな”オトナの街”の色が濃い場所だった。それは決してデジタル機材で撮影された映像だからというわけでも現代の役者が映っているからというわけでもなく、その浮ついていてフィクションめいたナラティブのせいだろう。場末のキャバレーの端っこで法被を着て演奏する若手ピアニスト”博”が自分の表現したいことができないもどかしさに嫌気がさして店を出ていったかと思えば、音楽家の集まる喫茶で会う同じ顔の男がこんどは高級クラブで鳴らすベテランピアニストとして、自分の歌を聴かないと嘆くシンガーをたしなめる。そんな夢を追う男・博と夢をあきらめた男・南、同じ姿をした二人の物語を暗転を挟んで一息つくこともなく行き来する。まるで博の未来の姿が南であるかのようにヒントがちりばめられていくので、細かく時間旅行をしてい気分になる。気がついたら少し前に居た場所とは別の舞台にとんでいってしまったかのように次々と振動する物語に振り落とされないようにしているうちにのめり込んでいく感覚は、まさにフリーなジャズのセッションを聴いているときのそれに似ている。

 

人物の視点や時制だけでなく、映画のジャンルについても自由にスイングして変わっていく。自己表現をめぐる若さについての青春ものかと思いきや、大人の街を舞台にしたヤクザものの緊張感とその裏返しのコメディが繰り広げられ、終盤は同じ顔の男がついに対峙するファンタジーな展開も待っている。トーンやキーが変わっていくようにとにかくいろんな質感が混ざり合い行き来していて、まるで台本という名の楽譜がないかのように、行く先を決めずに進んでいく物語にただ身を任せる94分だった。

 

終わった後に何か心に残るかと言えばそういうわけでもなく、だが見ている間の興奮はただものではないことが確かで、そのことだけは覚えている。音楽が鳴っていない間も、継ぎ目なく変調する映画のメロディとリズムに、心と体はスイングしっぱなしだった。

 


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アイドルグループ・BEYOOOOONDSの山﨑夢羽は、音楽を奏でるアーティストであるけれども、彼女のステージをまなざしているとき震えるのは決してその鼓膜だけではない。たしかに澄んでいて力強い歌声なのだが、それを聞いたとき涙がこぼれそうな感動ともリズムに乗って躍るのともまた別なふうに心がうごく。この気持ちよさを形容する言葉はまだないと思うが、”アイドルを聴く”っていうのはこういうことなのだと、その感覚だけは腑に落ちる。

 

ハロー!プロジェクトに所属するアイドルは年に一度、自分の誕生日近くに「バースデーイベント」なるライブを行う。普段のグループ活動では主張しきれない自分らしさを、自らの選曲した楽曲を披露したり企画コーナーを行ったりして、自分を推してくれるファンに表現する。今年のバースデーイベントで山﨑が全面に押し出した自分らしさは「アイドルらしさ」だった。

 

彼女が選んだのは「プライド・ブライト」、「SEXY SEXY」のようなJuice=Juiceの曲や「愛の園~Touch My Heart!~」(モーニング娘。おとめ組)「Kiss me 愛してる」(℃-ute)といったハロプロ往年の、満開の笑顔で明るくはじけるよりかは、流した目の媚びない表情で力強くに歌うのが似合う曲たち。今年で21歳になるのであえて「セクシー」な選曲を意識したそう。ハロプロにこれまで数多く在籍してきたディーバたちが歌いこなしてきた曲を、そこに手が届くのも時間の問題かというような歌声で自分のものにしていた。”アイドル”から”歌姫”へ、その二つは別物ではないが、求められるものが年齢を重ねるとともに”か弱さ”から”強さへ変質していく女性タレントとして彼女も自分の年齢にふさわしい曲を歌っていた。デビュー当時からその歌声が褒められてきた彼女にとってその変化は当然のように思える。

 

だが彼女は一般的に”進化”や”成長”と捉えられるその直線的な変化を拒んでいるようにも見える。わざわざ事前にブログで告知をしてコール&レスポンス練習してきてもらってまで「ドキッ!こういうのが恋なの?」(えり~な(キャナァーリ倶楽部)、手作りの映像とともにファンと一緒に楽しむところや、「お願い魅惑のターゲット」(メロン記念日)を最後の曲に選んで盛り上がったまま幕を閉じるところをみて、彼女が"アイドル"を捨てて羽ばたいていかないと決めたことを感じてとても嬉しかった。そしてアイドルを応援するとは、その未熟さを愛でるのでも圧倒的な才能を拝めるのでもなく、"ともに楽しむ"ことであるというのに気づけて安心した。

 

アイドルの本質のひとつに”身を任せる”ことが挙げられる。与えられた曲を誰かが抑えた会場で、人が作った衣装を着て披露するのがアイドルというエンターテイメントである。そのなかでどのような視線を自分に集めるかを選びつくっていくのがアイドルにとってのクリエイティビティだ。アーティストとしての自立が難しいなかでいわゆる”運営”が決めた物語に、抗わずとも委ねきらず、うまく乗れることがすぐれたアイドルの条件だ。

 

だとすると山﨑夢羽のステージに感じる居心地の良さはすなわちアイドル力の高さに拠るものだ。山﨑の歌のいちばんの魅力は、ほかのディーバのようなオリジナリティとパワーあふれるフェイクでも透き通った声質でもなく、そのリズム感の良さと滑舌の良さからくる音の粒立ちの良さだ。もらった歌の一音一音を、鳴らすべきタイミングで楽譜に書かれた音階で聴き取りやすく発音する。ボーカロイドの仕事のようだが、それぞれの人間が持って生まれた声それぞれにそれぞれの歌に対しての気持ち良い鳴らし方があって、山﨑はその正しさを突き詰める能力が高いのだと感じる。

 

彼女自身が語っていた印象的なエピソードがある。BEYOOOOONDSの曲はどれも演劇調で、セリフ調の歌詞やセリフそのものが歌になっていたりする。だからカバーするときにそのコロコロ変わる表情をつくるのが難しいと話していたところ、山﨑はそれに対して「普通の歌ではどんな顔をして歌ったらいいかわからなくて難しいから、BEYOOOOONDSの曲は表情が決められていてむしろありがたい」と答えていた。それを聞いた時、BEYOOOOONDSの主人公を他の誰が演じられるだろうかと思った。

 

自己主張が強くなく、人見知りでリーダーシップもない、それでも隠れるにはもったいない魅力を、与えられた場面でいかんなく発揮するというのが彼女のこれまでのアイドルとしての振る舞い方だ。コロナ禍でステージができないなかで、各メンバーに企画・撮影・編集が任せられた「おうちでもビヨンズ学校」で生み出されたユハえもんシリーズは工夫と努力、発想力とメンバー愛に満ちていて、引っ込み思案とは思えないほど尖っていてかつ遊び心に溢れていた。演技の仕事でも、その役のイメージで書かれた言葉を憑依するのとはまあ違ったかたちで彼女らしくセリフにして発する。

 

歌姫として生きていく才能はあるし多くの人がそれを認めている。だが彼女はアイドルとして活動を始めたのである。ならば成長してもアイドルとして、かわいいままで明るいままで、自分を見てくれる人と一緒に目の前のステージが楽しく流れていくことを望む。山﨑夢羽はアイドル・山﨑夢羽を乗りこなす天才なのである。彼女が歌うときだけでなく話している声を聞いても感じるリズム感の良さの正体は、そういう刹那的な快楽かもしれない。そしてその乗りこなすしぐさを、一人ではなく自分を愛してくれる人たちとともにしていくのだと、今回のバースデーイベントでは表明してくれた。少なくともいちファンの私はそう受け取っている。変わりゆく世の中のグルーブに乗って、流れるオケに乗せて自分の声を気味よく鳴らしていく彼女のアイドル人生にまだ当分は巻き込まれていたい。

 

 

音楽は文学や映画に比べて、持ち帰ってその先の人生何度も噛みしめるようなじわじわくる感動は与えにくい。しかしそれに身を任せた時の興奮と熱狂じたいは忘れがたく麻薬のように手放せないものである。だから逆に『白鍵と黒鍵の間に』や山﨑夢羽のアイドル人生のように心も身体も躍る体験のことを"良い音楽"だったと感じてもよいではないか。何が起こったかはよく覚えていなくても、どういうふうに感じたかは身体が覚えている。