あちらこちらで ~勝手に2本立て鑑賞日記~

映画館で、テレビで、美術館で……ところかまわずその週見たものたちをひとつの感想にこじつける

 弾の入っていない銃をめぐる "Sonatine" "VIVANT"

 

 

2023年9月11日から9月17日までに見たもの

 

私は銃を画面のなかでしか知らない。日本でそれを持てるのは、悪かそれに対峙する者だけだ。つまり本物を目にするときは、死の匂いを目の前にするときだ。だから一生画面を通して見られればいい。


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なぜ銃が怖いかといえば、それが一瞬のうちに空間のなかに死をもたらすことができるからだということを、北野武の映画を見ているとよくわかる。銃に限らず、1カット前まで静かだった空間に当然暴力が表れ、数秒後にはそれが嵐のように過ぎ去っていく。痛そうでもなく悲しくもない。それを、『ソナチネ』の冒頭雀荘の主人をクレーンに括り付けて溺れさせるのをみつめるヤクザたちと同じ顔になって見つめるのがキタノ映画という体験だ。

 

その世界では、死が日常と隣り合わせに存在している。沖縄を訪れた村川たちをかくまう雑居ビルの一室で若衆が煙草に火を点けようとしたのをきっかけにガス爆発をおこして、カットが変わった時にはその部屋に転がる死体から抗争の激しさだけを悟ったときのように、まったく死の予感がしないときにいきなり誰かが殺されても「まぁ、そうか」と無慈悲で無感動にさせられてしまう。

 

だから『ソナチネ』の海岸で行われたロシアンルーレットのシーンでも、この三発のうちのどこかで、村川・ケン・良二のうち誰かの頭を銃弾が貫いて死んでしまうのだろうと予想できる。けれど結局弾は入っていなくて三人とも生き残った。そのときの「助かった」という感情は彼らの世界では許されない”情けない”ものだろうが、抗争から逃げて笑いあって過ごしているのを見ているのだから、仕方ないことである。目の前の青い海を離れてもう一歩陸に近づけばいつ殺されるかわからないのだから、海岸でフリスビーをしたり花火で戯れる時間が「永遠に続けばいい」と思ってしかるべきではないか。

 

やがてその海岸にも相手方が遣わせた殺し屋がやってきて遠くから一発ケンの脳天を貫く。あのとき村川の銃から放たれた空砲のかわりに今度は中身の入っている一発がやってきただけだ。銃が撃たれることは結局そういう反復でしかない。

 

その殺し屋にエレベーターで復讐を果たした時も、残された村川を始末しに来た高橋を返り討ちにしたときも、自分を見捨てた親分たちにマシンガンを乱射するときも、そこに命の重さはまったくない。海をバックに燃え盛る炎や、暗闇に一定のリズムで鳴りつづける発砲音や、車のボンネットに反射する光のような自然現象としてすべてが起こる。最後に村川が自分の頭を撃ちぬくまで、一瞬のうちにすべてが駆け抜けていった。

 

「死ぬのばっかり怖がっていると、逆に死にたくなっちゃう」のだから、「怖がる」ことを持続させるような間を排除して、淡々と出来事どうしを切り詰めてできたのが『ソナチネ』である。だがそんな持続を許したひとときがあのロシアンルーレットだ。生きるか死ぬかの死神との駆け引きに、ヤクザたちのするどいまなざしに怯えて縮こまった心があのときだけ緩んで動いた気がする。雨の降ったり止んだりに一喜一憂したり、落とし穴にちゃんと落ちるかどうかにワクワクしたり、生きていることの持続が喜びだったあの時間がきっとそうさせるのだ。

 

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日曜劇場「VIVANT」が放送されていた毎週日曜日の夜も、誰かが誰かに銃を突きつけるような緊迫感が日本中を覆っていた。だがこちらに関しては、『ソナチネ』とは反対に「まぁ殺さないだろう」といった安心感がある。立場は違えどみんな正義のために闘っているのだから、簡単に人を殺めるなんてありえないとわかっている。いくら視聴者を裏切ることで快感を与えてきたとはいえ、そこはテレビドラマとしてわきまえている。TENTのテロも犠牲者が最小限になるよう計算されていたし、乃木に裏切られた別班員たちもやはり結局生きていた。このドラマのタイトル「VIVANT」はただ「BEPPAN」の聞き間違えたものではなく、「誰も死にません」と端から宣言していたのだ。

 

最終回、ノゴーン・ベキは公安の任務中に自らを見捨てた指揮官にせまって拳銃を突きつける。だがそのことを突き止めた乃木によってベキは撃たれ、指揮官は救出される。のちに明かされたのはその拳銃に銃弾は込められていなかったこと。思い返せば、乃木の別班に対する裏切りが本物であるかどうか確かめるために黒須を殺すように命じたとき渡した銃にも弾は入っていなかった。TENTの活動も、犠牲者こそ出しているが誰かを殺したり脅かしたりするためのものではなかった。ノゴーン・ベキが孤児たちを守るためにやってきたことがすべて”空の銃を突きつける”ことだったのかもしれない。武力によって命を脅かすことでしか手に入れられない正しさを求めるのが、ノゴーン・ベキひいては乃木卓の人生だったのである。”強さ”によって大事なものを守るという父としての役割を、息子を手離したかわりにバルカの子どもたちに果たしてきたのである。そしてそれを再会した本当の息子・憂助に託し、その裏面にある加害の罪を償うことで、卓は父としての人生を終えたのである。

 

『VIVANT』を貫く正義とはどこにあるのか。それは全10話を通して、公安、別班、TENTと移ろってきた。どの正義の裏側にもある加害性や無秩序さに目をつむれない結果、そうなったのだと思う。どの正義も、そのなかの弾が放たれないことを祈りながら、敵に銃を突きつけている。

 

 

ソナチネ』も『VIVANT』も”弾の入っていない銃の話”だった。簡単に人を殺してしまうその装置は、かたや死と隣り合わせの日常を表象していて、かたやその危うさがもたらす緊張をサスペンスに用いながら正義を説くと同時にそれを揺さぶってきた。それらをみて私たちはやはり「死にたくない」し、「死ぬところもみたくない」のだと、それらを見て思いなおすのである。

 

銃なんてこの世になければいいと思う。しかしそれは確かにあって日常と死は隣り合わせていることは避けられなくて、ときに誰かを守っているのも確かである。そう思って折り合いをつけるしかない世界に、私たちは生きているのである。