あちらこちらで ~勝手に2本立て鑑賞日記~

映画館で、テレビで、美術館で……ところかまわずその週見たものたちをひとつの感想にこじつける

『白鍵と黒鍵の間に』ある音を聴いて、山﨑夢羽はリズムに乗って

 

 

2023年10月30日から11月5日までにみたもの

 

耳で感じる刺激に心地よさを感じるのは、音楽を聴いている時だけではない。リズムやメロディーというのは、譜面のうえに記されていないものにだってある。目の前にあるものが持つ”流れ”に身体と心をゆだねるときに、音楽は始まると私は思う。


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白熱灯の暖かい光がたばこの煙を照らして、オレンジ色にかすみがかった空気。平成生まれの私はその匂いを知らないけれど、多くは古い映画のフィルムに焼き付けられたその景色を見ると”懐かしさ”を感じるようになってしまった。『白鍵と黒鍵の間に』に映る銀座のキャバレーはまさにそういった時代の景色だった。だがこの映画の銀座はその臭さのしない、澄んでいてスタイリッシュな”オトナの街”の色が濃い場所だった。それは決してデジタル機材で撮影された映像だからというわけでも現代の役者が映っているからというわけでもなく、その浮ついていてフィクションめいたナラティブのせいだろう。場末のキャバレーの端っこで法被を着て演奏する若手ピアニスト”博”が自分の表現したいことができないもどかしさに嫌気がさして店を出ていったかと思えば、音楽家の集まる喫茶で会う同じ顔の男がこんどは高級クラブで鳴らすベテランピアニストとして、自分の歌を聴かないと嘆くシンガーをたしなめる。そんな夢を追う男・博と夢をあきらめた男・南、同じ姿をした二人の物語を暗転を挟んで一息つくこともなく行き来する。まるで博の未来の姿が南であるかのようにヒントがちりばめられていくので、細かく時間旅行をしてい気分になる。気がついたら少し前に居た場所とは別の舞台にとんでいってしまったかのように次々と振動する物語に振り落とされないようにしているうちにのめり込んでいく感覚は、まさにフリーなジャズのセッションを聴いているときのそれに似ている。

 

人物の視点や時制だけでなく、映画のジャンルについても自由にスイングして変わっていく。自己表現をめぐる若さについての青春ものかと思いきや、大人の街を舞台にしたヤクザものの緊張感とその裏返しのコメディが繰り広げられ、終盤は同じ顔の男がついに対峙するファンタジーな展開も待っている。トーンやキーが変わっていくようにとにかくいろんな質感が混ざり合い行き来していて、まるで台本という名の楽譜がないかのように、行く先を決めずに進んでいく物語にただ身を任せる94分だった。

 

終わった後に何か心に残るかと言えばそういうわけでもなく、だが見ている間の興奮はただものではないことが確かで、そのことだけは覚えている。音楽が鳴っていない間も、継ぎ目なく変調する映画のメロディとリズムに、心と体はスイングしっぱなしだった。

 


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アイドルグループ・BEYOOOOONDSの山﨑夢羽は、音楽を奏でるアーティストであるけれども、彼女のステージをまなざしているとき震えるのは決してその鼓膜だけではない。たしかに澄んでいて力強い歌声なのだが、それを聞いたとき涙がこぼれそうな感動ともリズムに乗って躍るのともまた別なふうに心がうごく。この気持ちよさを形容する言葉はまだないと思うが、”アイドルを聴く”っていうのはこういうことなのだと、その感覚だけは腑に落ちる。

 

ハロー!プロジェクトに所属するアイドルは年に一度、自分の誕生日近くに「バースデーイベント」なるライブを行う。普段のグループ活動では主張しきれない自分らしさを、自らの選曲した楽曲を披露したり企画コーナーを行ったりして、自分を推してくれるファンに表現する。今年のバースデーイベントで山﨑が全面に押し出した自分らしさは「アイドルらしさ」だった。

 

彼女が選んだのは「プライド・ブライト」、「SEXY SEXY」のようなJuice=Juiceの曲や「愛の園~Touch My Heart!~」(モーニング娘。おとめ組)「Kiss me 愛してる」(℃-ute)といったハロプロ往年の、満開の笑顔で明るくはじけるよりかは、流した目の媚びない表情で力強くに歌うのが似合う曲たち。今年で21歳になるのであえて「セクシー」な選曲を意識したそう。ハロプロにこれまで数多く在籍してきたディーバたちが歌いこなしてきた曲を、そこに手が届くのも時間の問題かというような歌声で自分のものにしていた。”アイドル”から”歌姫”へ、その二つは別物ではないが、求められるものが年齢を重ねるとともに”か弱さ”から”強さへ変質していく女性タレントとして彼女も自分の年齢にふさわしい曲を歌っていた。デビュー当時からその歌声が褒められてきた彼女にとってその変化は当然のように思える。

 

だが彼女は一般的に”進化”や”成長”と捉えられるその直線的な変化を拒んでいるようにも見える。わざわざ事前にブログで告知をしてコール&レスポンス練習してきてもらってまで「ドキッ!こういうのが恋なの?」(えり~な(キャナァーリ倶楽部)、手作りの映像とともにファンと一緒に楽しむところや、「お願い魅惑のターゲット」(メロン記念日)を最後の曲に選んで盛り上がったまま幕を閉じるところをみて、彼女が"アイドル"を捨てて羽ばたいていかないと決めたことを感じてとても嬉しかった。そしてアイドルを応援するとは、その未熟さを愛でるのでも圧倒的な才能を拝めるのでもなく、"ともに楽しむ"ことであるというのに気づけて安心した。

 

アイドルの本質のひとつに”身を任せる”ことが挙げられる。与えられた曲を誰かが抑えた会場で、人が作った衣装を着て披露するのがアイドルというエンターテイメントである。そのなかでどのような視線を自分に集めるかを選びつくっていくのがアイドルにとってのクリエイティビティだ。アーティストとしての自立が難しいなかでいわゆる”運営”が決めた物語に、抗わずとも委ねきらず、うまく乗れることがすぐれたアイドルの条件だ。

 

だとすると山﨑夢羽のステージに感じる居心地の良さはすなわちアイドル力の高さに拠るものだ。山﨑の歌のいちばんの魅力は、ほかのディーバのようなオリジナリティとパワーあふれるフェイクでも透き通った声質でもなく、そのリズム感の良さと滑舌の良さからくる音の粒立ちの良さだ。もらった歌の一音一音を、鳴らすべきタイミングで楽譜に書かれた音階で聴き取りやすく発音する。ボーカロイドの仕事のようだが、それぞれの人間が持って生まれた声それぞれにそれぞれの歌に対しての気持ち良い鳴らし方があって、山﨑はその正しさを突き詰める能力が高いのだと感じる。

 

彼女自身が語っていた印象的なエピソードがある。BEYOOOOONDSの曲はどれも演劇調で、セリフ調の歌詞やセリフそのものが歌になっていたりする。だからカバーするときにそのコロコロ変わる表情をつくるのが難しいと話していたところ、山﨑はそれに対して「普通の歌ではどんな顔をして歌ったらいいかわからなくて難しいから、BEYOOOOONDSの曲は表情が決められていてむしろありがたい」と答えていた。それを聞いた時、BEYOOOOONDSの主人公を他の誰が演じられるだろうかと思った。

 

自己主張が強くなく、人見知りでリーダーシップもない、それでも隠れるにはもったいない魅力を、与えられた場面でいかんなく発揮するというのが彼女のこれまでのアイドルとしての振る舞い方だ。コロナ禍でステージができないなかで、各メンバーに企画・撮影・編集が任せられた「おうちでもビヨンズ学校」で生み出されたユハえもんシリーズは工夫と努力、発想力とメンバー愛に満ちていて、引っ込み思案とは思えないほど尖っていてかつ遊び心に溢れていた。演技の仕事でも、その役のイメージで書かれた言葉を憑依するのとはまあ違ったかたちで彼女らしくセリフにして発する。

 

歌姫として生きていく才能はあるし多くの人がそれを認めている。だが彼女はアイドルとして活動を始めたのである。ならば成長してもアイドルとして、かわいいままで明るいままで、自分を見てくれる人と一緒に目の前のステージが楽しく流れていくことを望む。山﨑夢羽はアイドル・山﨑夢羽を乗りこなす天才なのである。彼女が歌うときだけでなく話している声を聞いても感じるリズム感の良さの正体は、そういう刹那的な快楽かもしれない。そしてその乗りこなすしぐさを、一人ではなく自分を愛してくれる人たちとともにしていくのだと、今回のバースデーイベントでは表明してくれた。少なくともいちファンの私はそう受け取っている。変わりゆく世の中のグルーブに乗って、流れるオケに乗せて自分の声を気味よく鳴らしていく彼女のアイドル人生にまだ当分は巻き込まれていたい。

 

 

音楽は文学や映画に比べて、持ち帰ってその先の人生何度も噛みしめるようなじわじわくる感動は与えにくい。しかしそれに身を任せた時の興奮と熱狂じたいは忘れがたく麻薬のように手放せないものである。だから逆に『白鍵と黒鍵の間に』や山﨑夢羽のアイドル人生のように心も身体も躍る体験のことを"良い音楽"だったと感じてもよいではないか。何が起こったかはよく覚えていなくても、どういうふうに感じたかは身体が覚えている。

『メイ』さんと「イワクラせいや警備保障」の若手芸人たちが後にした部屋

 

 

2023年10月23日10月29日までに見たもの

 

誰かの暮らしをのぞき見ることは、ほとんど映像によってしか許されない。わたしがけっして入っていけない場所で生きる人に迷惑をかけることなく、こっそり他人の温度を感じることを求めて日々この目でいろんなことを見ている。


東京国際映画祭は、そのための恰好の祭りである。アジアを中心に世界中の人の生きているところを映した映像が街じゅうにあふれることになる数日間だ。スクリーンの前で座って目を開けているだけで、街を行き交う人にたいしてはできない濃度で、遠く離れた人やそのひとが生きる場所のことを知ることができる。

 


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初日の月曜日、中央の広場ではレッドカーペットが行われているかたわら、エリアの片隅の映画館で夕方上映されていた『メイ』(原題:梅的白天和黑夜)を見た。少ない情報しか事前につかめない映画祭ならではの得体のしれなさだが、”上海”の暮らしも”老女”の暮らしも、どちらもこんな機会でもないとみつめることはできないだろうと、楽しみにしていた。

駅で携帯電話に向かって話しながら歩く女性。誰と待ち合わせをしているのかと思っていると現れたのは同年代か少し年下の男性。(そもそもメイさん本人が着込んでおり髪が長く、顔も形も輪郭が見えないせいで年齢がわかりにくいのだが)。まるでマッチングアプリで出会った若人たちのようにご飯を食べながらあーだこーだ身の上話を交わす。交わすといってもほとんどがメイさんのターンなのだが。そのやかましさは同じ年齢の男性ではあまり醸し出せないであろう。都度はさまれる部屋での彼女の様子を見るかぎり独り身のようだが、外に出ると少なくない老人仲間と活発に交流していて、孤独ではないようすがうかがえる。

 

彼女は住む部屋を探している。たしかに今住んでいるところは物が多く手狭そうだ。不動産屋でも変わらずやかましく、適度にあしらわれつつ運転する店員の背中にがっちり掴まりながらバイクにのって内見に向かうときはさすがに静かで、過ぎ去るビル群の背景もあいまって彼女の社会的・生物的な無力さがむきだしになっていて、このあたりから愛おしさを感じてくる。

 

そういう言葉を口にして悲壮感を漂わせることはしないけれども、彼女や他の老人たちにとって”孤独”をどうするかはとても切実な問題のはずである。笑っているし踊っているけれども、ひとりでなんでもできる力があるわけでもないのだから、なんとか時間を使い切るためにみんなでいる感じもする。若者たちが集まっているような熱さや輝きはなく、必要でそれ以外によりよい時間の過ごし方がないから集まっている雰囲気は、上海特有の重たい天気のせいで感じるのではきっとない。メイさんが住む部屋だって手狭そうではあるけれども暮らしに十分の広さで、ベッドに眠る姿はむしろ、彼女のぶんだけ空いた隙間にすっぽり嵌っているようだ。

 

孤独ではなさそうだけど、相手を探す。暖かい住処はあるけれども家を探す。そういったどうしようもない孤独とともにあるところに、国境も年齢の差も越えて共感してしまった。引っ越しの荷物といっしょにトラックの荷台に乗せられていくメイさんの背中を見ても、これからもどこか物足りないぬるい日常が続いていく予感がし、実際映画のラストシーンはファーストシーンと同じ駅の待ち合わせに戻るのであった。

 


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数日後の夜テレビに映っていたのは、一人暮らしの老人とは真逆の三人暮らしの若手芸人の引っ越しの様子であった。水曜日の夜深くに毎週放送されている『イワクラせいや警備保障』は、シェアハウスにカメラを設置して、そこに暮らす人たちのようすをのぞき見する番組である。そこでは共同生活のうちにできあがった日常がどんどん外の世界へさらけ出されていく。家の中での当たり前は、家の外からみたらもちろん珍しいことだ。ゆえにカメラで撮られた映像は、イワクラにとってもせいやにとってもテレビの前の私たちにとっても可笑しかったり羨ましかったり、非日常的な心の動かし方をしてくる。

 

その日カメラが入っていたのは、なかむら(9番街レトロ)、かつやま(とんかつ街道)、ヤス(ナイチンゲールダンス)が暮らす歌舞伎町の一室。普段ステージの上から観客を笑わせることを生業としている芸人たちが、誰を笑わせるためでもなく自分たちが楽しむためだけにつくられた”ノリ”をみているのは恥ずかしくもなるけれども、前途多難な人生を楽しく歩むためにはこれくらいあっけらかんとしていなくてはなと安心する気持ちもある。

 

数週間前に放送されたのは、そんな彼らがなぞかけクイズを楽しんだりもう夜も更けようかという頃に飲み会を始めたりする様子だったが、今回は彼らがその部屋を引き払うために片づけをする一晩にフォーカスがあてられた。引っ越してきてきっと初めて風呂を掃除するところだったり、仕事でつかう道具をはじめとして部屋にたまっていったあれこれを仕分けてまとめるさまなどリアルな作業を面倒くさそうに行うが、片付いた部屋の隅で三人並んで思い出を語り合う動画を撮影しているところをみると、青春の1ページをまざまざと見せつけられているのだなと思う。たしかにここに根を張っていたけれども、こんな一瞬の出来事はすぐに過去になってしまいそうな淡さ。どの時間も孤独とは無縁で、それに気づいたら走るのを止めてしまいそうになるからあえて騒がしい生活を送っているのだろうか。その理由は上海の老人たちが公園で集まるのと本質的には変わらないのかもしれない。

 

積み上げられた荷物たちが運び出されていくところまでカメラが追うことはなかった。引っ越しはあくまで寝泊まりする場所を変更するための形式的な作業で、本人たちの居場所は劇場であったりカメラの前にすぎないとでもいいたげに、荷物を後に仕事に向かっていく若手芸人たち。その背中はトラックの上のメイさんとは違って、軽やかで堂々としていた。メイさんにももしかしたらそういう時期があったかもしれないし、若手芸人たちも夢をあきらめるか叶い終えるかして孤独な老人になるかもしれない。

 

それぞれの暮らしが老後だからといって薄っぺらいわけでもなく、夢を追いかけているからといって粗雑なわけでもなく、そこで眠ってお腹を満たすからこその人間らしい温かみがあった。だから部屋をあとにするのは、その先に待つのが変わらない日常であるにせよ夢に近づく一歩であるにせよ、寂しいことである。

 

なんてことをどの人にも無関係だからこそ勝手に思っていられるから、のぞき見させてもらうことはとても楽しい。

 

 弾の入っていない銃をめぐる "Sonatine" "VIVANT"

 

 

2023年9月11日から9月17日までに見たもの

 

私は銃を画面のなかでしか知らない。日本でそれを持てるのは、悪かそれに対峙する者だけだ。つまり本物を目にするときは、死の匂いを目の前にするときだ。だから一生画面を通して見られればいい。


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なぜ銃が怖いかといえば、それが一瞬のうちに空間のなかに死をもたらすことができるからだということを、北野武の映画を見ているとよくわかる。銃に限らず、1カット前まで静かだった空間に当然暴力が表れ、数秒後にはそれが嵐のように過ぎ去っていく。痛そうでもなく悲しくもない。それを、『ソナチネ』の冒頭雀荘の主人をクレーンに括り付けて溺れさせるのをみつめるヤクザたちと同じ顔になって見つめるのがキタノ映画という体験だ。

 

その世界では、死が日常と隣り合わせに存在している。沖縄を訪れた村川たちをかくまう雑居ビルの一室で若衆が煙草に火を点けようとしたのをきっかけにガス爆発をおこして、カットが変わった時にはその部屋に転がる死体から抗争の激しさだけを悟ったときのように、まったく死の予感がしないときにいきなり誰かが殺されても「まぁ、そうか」と無慈悲で無感動にさせられてしまう。

 

だから『ソナチネ』の海岸で行われたロシアンルーレットのシーンでも、この三発のうちのどこかで、村川・ケン・良二のうち誰かの頭を銃弾が貫いて死んでしまうのだろうと予想できる。けれど結局弾は入っていなくて三人とも生き残った。そのときの「助かった」という感情は彼らの世界では許されない”情けない”ものだろうが、抗争から逃げて笑いあって過ごしているのを見ているのだから、仕方ないことである。目の前の青い海を離れてもう一歩陸に近づけばいつ殺されるかわからないのだから、海岸でフリスビーをしたり花火で戯れる時間が「永遠に続けばいい」と思ってしかるべきではないか。

 

やがてその海岸にも相手方が遣わせた殺し屋がやってきて遠くから一発ケンの脳天を貫く。あのとき村川の銃から放たれた空砲のかわりに今度は中身の入っている一発がやってきただけだ。銃が撃たれることは結局そういう反復でしかない。

 

その殺し屋にエレベーターで復讐を果たした時も、残された村川を始末しに来た高橋を返り討ちにしたときも、自分を見捨てた親分たちにマシンガンを乱射するときも、そこに命の重さはまったくない。海をバックに燃え盛る炎や、暗闇に一定のリズムで鳴りつづける発砲音や、車のボンネットに反射する光のような自然現象としてすべてが起こる。最後に村川が自分の頭を撃ちぬくまで、一瞬のうちにすべてが駆け抜けていった。

 

「死ぬのばっかり怖がっていると、逆に死にたくなっちゃう」のだから、「怖がる」ことを持続させるような間を排除して、淡々と出来事どうしを切り詰めてできたのが『ソナチネ』である。だがそんな持続を許したひとときがあのロシアンルーレットだ。生きるか死ぬかの死神との駆け引きに、ヤクザたちのするどいまなざしに怯えて縮こまった心があのときだけ緩んで動いた気がする。雨の降ったり止んだりに一喜一憂したり、落とし穴にちゃんと落ちるかどうかにワクワクしたり、生きていることの持続が喜びだったあの時間がきっとそうさせるのだ。

 

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日曜劇場「VIVANT」が放送されていた毎週日曜日の夜も、誰かが誰かに銃を突きつけるような緊迫感が日本中を覆っていた。だがこちらに関しては、『ソナチネ』とは反対に「まぁ殺さないだろう」といった安心感がある。立場は違えどみんな正義のために闘っているのだから、簡単に人を殺めるなんてありえないとわかっている。いくら視聴者を裏切ることで快感を与えてきたとはいえ、そこはテレビドラマとしてわきまえている。TENTのテロも犠牲者が最小限になるよう計算されていたし、乃木に裏切られた別班員たちもやはり結局生きていた。このドラマのタイトル「VIVANT」はただ「BEPPAN」の聞き間違えたものではなく、「誰も死にません」と端から宣言していたのだ。

 

最終回、ノゴーン・ベキは公安の任務中に自らを見捨てた指揮官にせまって拳銃を突きつける。だがそのことを突き止めた乃木によってベキは撃たれ、指揮官は救出される。のちに明かされたのはその拳銃に銃弾は込められていなかったこと。思い返せば、乃木の別班に対する裏切りが本物であるかどうか確かめるために黒須を殺すように命じたとき渡した銃にも弾は入っていなかった。TENTの活動も、犠牲者こそ出しているが誰かを殺したり脅かしたりするためのものではなかった。ノゴーン・ベキが孤児たちを守るためにやってきたことがすべて”空の銃を突きつける”ことだったのかもしれない。武力によって命を脅かすことでしか手に入れられない正しさを求めるのが、ノゴーン・ベキひいては乃木卓の人生だったのである。”強さ”によって大事なものを守るという父としての役割を、息子を手離したかわりにバルカの子どもたちに果たしてきたのである。そしてそれを再会した本当の息子・憂助に託し、その裏面にある加害の罪を償うことで、卓は父としての人生を終えたのである。

 

『VIVANT』を貫く正義とはどこにあるのか。それは全10話を通して、公安、別班、TENTと移ろってきた。どの正義の裏側にもある加害性や無秩序さに目をつむれない結果、そうなったのだと思う。どの正義も、そのなかの弾が放たれないことを祈りながら、敵に銃を突きつけている。

 

 

ソナチネ』も『VIVANT』も”弾の入っていない銃の話”だった。簡単に人を殺してしまうその装置は、かたや死と隣り合わせの日常を表象していて、かたやその危うさがもたらす緊張をサスペンスに用いながら正義を説くと同時にそれを揺さぶってきた。それらをみて私たちはやはり「死にたくない」し、「死ぬところもみたくない」のだと、それらを見て思いなおすのである。

 

銃なんてこの世になければいいと思う。しかしそれは確かにあって日常と死は隣り合わせていることは避けられなくて、ときに誰かを守っているのも確かである。そう思って折り合いをつけるしかない世界に、私たちは生きているのである。

響け!、ハロプロの「ALL FOR ONE & ONE FOR ALL!」の歴史とユーフォニアム

 

 

2023年9月4日から9月10日までにみたもの

 

”青春”ってあっという間に過ぎ去る季節のようだけど、それは「先輩」が少し前に過ごしたもので、「後輩」たちがこれから過ごしていく時間で、いまそのなかに居る人だけのものでは決してない。今っていうのは、そうやっていろんな人の時間が折り重なってできている。

 


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『特別編 響け!ユーフォニアム~アンサンブルコンテスト~』の舞台となる季節は、夏のコンクールが終わり3年生が引退して2年生が最上級生となって吹奏楽部を引っ張っていく、世代の変わり目。先輩が引退しているけれども卒業はしていない曖昧な状態。部長になった久美子は、アンサンブルコンテストの校内予選に際したチーム決めであぶれた部員のチームに、結局傘木希美と吉川優子ら3年生を参加させることにする。久美子は内部で問題を解決できなかったことを後ろめたく感じたようだったが、それで良いのだ。ここまでの北宇治高校吹奏楽部の歩みをみてきた人にとって、吹奏楽は”自分の力だけでなんとかする”ものではないことをよく知っている。リズムを奏でる楽器とメロディーを奏でる楽器があって、悩んでいる人とそれに手を差し伸べる人がいて、高音パートと低音パートがあって、目立つスキルで演奏全体を華やげる役割と基本に忠実なプレイで堅実に演奏を支える役割がいる。それが吹奏楽部という共同体である。

 

同じ空間にいる仲間の息づかいを読み取り、リズムとハーモニーをつくりだすことが部員一人一人のあいだで行われていることを、1つの高みを目指す流れから一旦外れたアンサンブル・コンテストへの取り組みを通して描いたのが今回の特別編だ。部長の久美子と釜屋つばめがいっしょに段差を乗り越えながらマリンバを運ぶときの、並んだり向かいあったりする緊張感は、このシリーズにおけるキャラクターどうしのコミュニケーションや演奏に通奏しているのと同じものである。

 

最後には青い空をバックに久美子とつばめによって序奏部が演奏される。先をゆくユーフォニアムのメロディとそれに寄り添うマリンバのリズムのハーモニーは、息づかいを読みあいながら高みを昇っていく彼女たちの足どりのように軽やかだった。その音は、2人だけのものでも、同じアンサンブルの8人のものでも、吹奏楽部のものでもない。楽器たちにはこれまでの部員の息が吹き込まれ受け継がれてきている。だからこそあれだけ丁寧にマリンバを運ぶ。「響け!ユーフォニアム」の音楽はどれもそんな時を超えたなのだ。

 


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さまざまな目的で人が集まる日曜日の代々木公園を抜けて、代々木体育館に着いたとき、いつものコンサートではない雰囲気を感じた。何度か参加したアンジュルムやBEYOOOOONDSの単独コンサートとも、現役メンバーが勢ぞろいするひなフェスとも違う、集まるファンたちのようす。話にしか聞いたことない「保田大明神」ののぼり、オタクのアイコンとして特別な意味を持つ「道重一筋」のピンクTシャツ。今日ここに集まっているのは、オタクの「先輩たち」なのだと確信する。Hello!Project25周年を祝うライブで、現役はもちろん25年のなかでハロプロを旅立っていった各世代のOGが出演するとなれば、その歴史を背負ったファンたちが集まるのも当たり前である。

 

代々木体育館ならでは天井からの光が遮断され、センターステージ後ろのモニターに映し出されたのは、斬新なエフェクトも奇抜な音楽もない、25年間のライブ映像を集めて繋げただけの真面目なオープニング映像。これから始まるのは楽しいコンサートというより、「記念式典」なのかもしれない。卒業後にアナウンサーに転身した紺野あさみの厳粛な声がさらにそう思わせる。

 

まず手始めに、現役のグループたちが、ハロプロを去っていったアイドルたちが歌っていた曲を歌い繋いでいく。曲は昔のものでも、はじめて目の当たりにするアンジュルムの新メンバー二人(後藤花・下井谷幸穂)やJuice=Juiceの新メンバー川嶋美楓のソロパートのフレッシュさがしっかり楽しい。ハロー!プロジェクトとは25年の間に残されてきた作品群ではなく、その歴史の上にたつ今のアイドルという存在であることに安心する。当時それらの曲を歌ったアイドルたちも、こんな風に何十年後も歌い継がれていくことは想像していなかっただろう。誰かが若いときに命を注いだものが時を越えて誰かを輝かせている。記号としての”アイドル”が背負った儚さや脆さとは真逆の厚みをもった時間が続く。

 

卒業していったメンバーたちが続々登場する。ひとくくりにOGといっても、まだ歌手として歌い続けて音楽界にいる人から芸能界すら後にした人もさまざまいる。共演したことないメンバーどうしのパフォーマンスの新しさとそれぞれがアイドルとして”復活”する懐かしさとがまじりあう。石川梨華辻希美矢口真里をテレビタレントとしてしか見たことがない私のような新しいファンにしてみれば、歌い踊る姿は現役メンバーのパフォーマンスよりも目新しい光景である。一方、スポットライトに一人ずつ照らされる鈴木愛理夏焼雅田中れいなに阿鼻叫喚する私の左前方の方や、ラララのピピピがかかったとたんに雄々しく声を上げる右後方のピンクTシャツの方からしてみれば、思い出がよみがえる瞬間だったのだろう。

 

矢口・辻と並ぶ松本わかな・豫風瑠乃、辻とステージを二人占めする島倉りか、道重さゆみの後ろで踊る田代すみれと川嶋美楓、それぞれにのしかかる歴史や思いをいまここの輝きに昇華させていく。OGたちもあのときの自分を宿して光を浴びる。”相方”の加護ちゃんの空いたところを埋めることでタンポポとして歌う念願がかなった辻ちゃんのようにここへきて新たな一歩を踏み出したOGもいる。客席からの視線も、成長の瞬間を確かめるものから再び動き出した思い出を焼き付けるものまでさまざまだ。

 

ハロプロの枠を超えて国民的に歌い継がれていく「ザ☆ピース」や「恋愛レボリューション21」が歌われるころになれば、そんな客席の思いも一つになっていたのではないだろうか。”みんなのもの”となった歌をわかちあってその空間を楽しむ。やっぱりこれはコンサートでライブであった。出演者たちは締めの挨拶で早くも5年後の30周年ライブのことを口にする。本当はいつまでも続いてほしい時間をあきらめる理由として、ちょっと先の未来に約束が欲しいのは観客たちも同じだった。

 

今からさ(GO!) 未来をつかもう 古きに学び 研究した分 向上するから

その時間はラストにオールキャストで歌われた「ALL FOR ONE & ONE FOR ALL!」の歌詞のように、未来を向いたことばで幕を閉じる。ハロプロソングはいつもそうして未来をみつめる。

青春の1ページって 地球の歴史からすると どれくらいなんだろう? / ザ☆ピース

そして、この瞬間に集まった地球や宇宙の大きさに思いを馳せる。いつかほんとうに宇宙くらいハロプロが大きくなっても、こんな瞬間に帰ってきたい。そしてそのときも今日の私とその後ろの歴史の重みを感じたい。

 

 

青春のなかを駆けていってしまったはずのものでも、他の誰かに引き継がれていたり、私の内に残っていつかまた燃え上がるかもしれない。北宇治高校の吹奏楽部のみんなや、ハロー!プロジェクトのアイドルたちの青春に積み重なる時間を見ているとそうあってほしいと思う。たしかに悩み閉じこもりがちな時期ではあるけれども、けっしてひとりじゃないと信じたい。だって、

 

夢という字を 2人で書くぞ 一人よりも楽しいぞ。。。。。 / プッチモニ

 

 

『アステロイド・シティ』で居合わせた『無修正』の人たちのかけがえないイマ

 

 

2023年8月28日から9月3日までに見たもの

 

”見る”ときは、見る人と見られる人がいて、見られる人がそれに気づいていなくても他の人は”見る”ことができる。それは少し危ないことでもある。それでも安全に”見る”ためには、”見せられるもの”を見る必要がある。時間と情熱をかけられたものに視線を向けるというひとつの簡単な仕草だけで知らない世界に旅することができる。映画や舞台を見るとはそういうことで、だからこそ私はそれが好きなのだと思う。


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空気階段のコントはたいてい、"出会う"ことから始まる。人間としては異形といえるほど太ったもぐら演じる異質な他者にかたまり演じる常識人が振り回されるという"人と人との出会い"のレイヤーを基本に、時折その奥に世界に隠された未知なる道理を知ること、すなわち"世界との出会い"をすることもある。たとえば第6回単独公演『無修正』の2本目のコント「潮騒」は、北島ファミリーの演歌歌手・潮騒の付き人をしているかたまりが、"北島ファミリーは、小室ファミリーに対抗するためにウォシュレットから出る水に薬物を混入させることを試みる組織である"という事実が横たわった世界に出会う。もちろん荒唐無稽な陰謀論めいた設定なのだが、混沌さをます現代のなか特に異常さが露呈しつつある芸能界の話となるとどこか信じてもいい気がしてくる。

 

そうやって、空気階段のコントで起こる”未知との遭遇”は、真面目ではない人や出来事を通して私たちにもたらされる。「ふたりのワイドショー」も同じく芸能界のなかのテレビを舞台に、MCの風水師とゲストの女社長が出会う。「は」で歯と出会うのも借金を抱えたふまじめな青年である。空気階段のコントで起こるのは、非日常のなかで異質なものどうしが居合わせることである。そして自分の異常さに気づいていない人が披露する常識に、コントの登場人物も観客も振り回されることを楽しむ。ponpokoがオフ会で出会う、何人ものユーザーを一人で演じる人も、ふたりのワイドショーの前時代的な価値観をもつ女社長も、それが当たり前に起こる社会では楽しくない。

 

そうやって常識はずれの行動をとることで”はぐれもの”とされてしまった人たちに対して、最後に救いの手を差し伸べるのが空気階段の単独公演だ。最後のコントは、どんな星でもうまく生きられず迷惑をかけてしまった宇宙人(もぐら)が、「7-7」のはずれ馬券を集めて願いを叶える話。文字通り異星人の彼に出会った競馬場通いの青年(かたまり)は、「ふたりのワイドショー」に登場した女社長に恋をしていて、その恋を叶えるために手伝うことになる。労働者を搾取する悪しき経営者でも誰かの心のよりどころになっていたり、恵方巻に「背が高くなりたい」と願いを込めたことで誰かの大事なものを火事から守ることができたり、どこかの”おかしいこと”が他の理不尽さを解決することがある世界がここにある。世の常識にとらわれて並大抵の人生を送ることで満足しない「変な」人たちが遠くでつながりあって、ひとつひとつの歪さをまあるくおさめていく。小さな奇跡を重ねて物語は、はじめは異質な他者どうしだった二人が、長い時間をかけて起こした奇跡を捧げるほどの「友達」になることで結ばれる。最後は宇宙の遠くに飛んで行ってしまうけれど、どれだけ関係ないところにいても知らないところで助け合えるこの世界で、その距離は意味のない隔たりだ。

 

カラオケボックス、テレビのスタジオ、潜水艦と彼らが出会う世界は小さい箱だ。そこで閉じ込められることで深く関係しあうことになる『無修正』な人たちが、もっと広い世界の一部であることを、最後に広い宇宙を見た私たちは知ることになり、なんでも許せる優しい人間になった気がする。

 


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『アステロイド・シティ』も、そこに居合わせた人たちが閉じ込められる物語だ。そうでなくたって、この砂漠の街は演劇のためにつくられた架空の存在で、創作物のなかに脚本家が人々を閉じ込めたものである。書き割りのように絵画的な街の景色を背景に、直線的で戻らない時間に乗って、87人しかいない街の住人と、”子どもがジュニア科学コンテストにエントリーしている”というだけでつながった人々の悲喜こもごもが演じられる。

 

コンテストの参加者の一人・ウッドロウを連れてきた父・オギーは、戦場カメラマンとして窓の外にたちのぼるきのこ雲やカフェで隣に居合わせた女優・ミッジなど、目の前の出来事をフィルムに記録していく。今を確実に捉えることを生業としている。しかしアステロイド・シティにやってきた彼は、妻が亡き人となった過去から前を向けておらず、そのことを娘たちに伝えずにいる。

 

同じく天才キッズのダイナを連れてやってきた母・ミッジは、来る映画の撮影に向けて演技を練習している。彼女は未来のことを繰り返している。オギーとミッジは隣のモーテルに泊まることになり、窓越しに同じ時間を過ごすようになる。この出会いによってオギーに変化が訪れる。

 

かと思いきや、宇宙人との遭遇というセンセーショナルでアンフォゲッタブルな今にすべての視線が集まり、人々は街に閉じ込められる。「見なかったことにしろ」と命じる大人たちに、子どもは反抗的だ。いや大人に反抗しているのではなく、道理に従順なのだ。見てしまったものは忘れられない。あったことはなかったことにできない。そういう人生の戻らなさを、彼らはよくわかっている。なら、オギーにとっての妻の死もそういうものだろう。手に負った火傷のように、ミッジとの夜についてダイナの目に焼きついた映像のように、それは剥がすことができなくてずっとそこにあるものではないか。母の死を意外とすんなり受け入れ、遺灰は実家のゴルフ場に持っていくことなくアステロイド・シティの砂の下にことにした娘の三つ子のほうが、そのことをよっぽどわきまえている。彼女の死を、どこかへもっていくことなどできない。

 

舞台の裏で母親を演じるはずだった女優とオギーはこんな言葉を交わした

 

「現像できるかしら」

「できるさ、私の写真だ」

 

そう。オギーは「焼きつける」ことで生きているのだ。

 

やがてディスクロージャーが解かれたアステロイド・シティを人々は後にする。オギーが背負っていた過去はモーテルの間の砂に埋まっていて、代わりに私書箱の住所を記した一枚の紙切れにを手にする。ミッジが未来を繰り返すことに付き合い続けるのではなく、女優の皮を剥がれたひとりの人間としての彼女と、彼はどうやらつながりつづけていくみたいだ。

 

一度始まったら終わらない、巻き戻ることのない人生という演劇を、テレビが映す現在のなかに閉じ込めたのが、映画『アステロイド・シティ』だ。劇作家はこの劇のテーマを"永遠"だと語る。しかし自らの死をもって、永遠などないと証明してみせる。あるのはそこに居合わせた人との間にある今だけだ。それを焼きつけて、次の今に出会っていくしかないのだ。

 

『無修正』の世界でも、『アステロイド・シティ』の世界でも、さまざまな"未知との遭遇"が起こる。遭遇するまでの時間を共有していない、むき出しの人間どうしが居合わせて影響しあって、なかったことには戻れなくなって、そうやって生は積み重なっていく。それは、外側にいる私たちと作品との境界でも起こっていることで、もしかすると同じ時間で見ていた隣の人とも起こっていることかもしれない。私の願いも、そんな誰かに託してみようかしら。

 

『Barbie』と松涛美術館の「ボーダレス・ドールズ」たちに悲しみの涙を

 


2023年8月21日から8月27日までに見たもの

子どものときは人形遊びを良くしていた。人間の顔をしたお人形を使ったおままごとではなく、戦隊ヒーローやウルトラマンと敵の怪獣や怪人のソフビを動かして戦わせて遊ぶヒーローごっこだった。そこではどのフィギュアも強くてかっこよくて、なりたい私がそこにいた。



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映画『Barbie』の冒頭でドール片手におままごとする女の子たちと”男の人形遊び”をしていた私とは、違うようでいて人形に自分のなりたい姿を重ねていたところは同じといえる。

 

そのあとキャメラは人形たちが暮らす「バービーランド」に入っていく。街は色鮮やかでどの人形たちもみんな笑顔で楽しそうである。労働はするけれどそれは誰もが輝かしく活き活きとしているためにすることで、対価としてお金をもらうために苦しんですることではないらしい。夜になれば集まってパーティをする。笑いあって夜を明かして、次の日も同じような朝を迎える。

 

ここには不安や怖さがない。なぜなら「死」がないから。人形たちには必ず1秒先があり、明日があり、それを永遠に繰り返していくことに疑いがない。だからパーティーの途中でバービーが「死について考えた」ことを口にした時間は、まるでそこだけ切りとられて存在しないみたいに流されてしまう。人形とは一般的に人の形をした無機物のことだけど、この映画の人形たちは動くこと話すこともできる。命は宿っているけどそれは終わりのないもの。ここで人形は人間から「死」を引き算した存在なのだ。

 

「死」の概念が生まれてしまったバービーは、他の人形たちと同じ種類のものではなくなり、より近い種類の存在がいる「人間界」へと向かう。そこには、「人形界」にないいろいろなものがある。他人をさげすむ目線、働いて疲れる体、老い、お金。”バービー”と”ケン”の二種類しかほとんどいない元居た世界とは違って、全員がそれぞれ特別な誰かであるために何かを背負っている。子どもから大人まで、時間がたてば変わるかたちに応じて昨日と違う今日を生きている。それまで見ていたバービーランドの明るい色をした街と比べると、怖い顔をしている人間ばかりいる世界ははじめ”完璧じゃない”ように見える。しかし果たして明るく笑顔の絶えない生活は「完全無欠」なものなのか、それとも悩みや怒りを「欠いている」のか。

 

持ち主のグロリアと娘を連れて帰ったバービーランドは、前とは打って変わってケンがバービーを従えている世界になっていた。人形界は変わってしまったようだが、大きくは何も変わっていない。役割が変わっただけで本質的には無色でありふれた個体しかいなくて、システムがあってそれのコマとして意思なく操り手の思う通りに動く。人間界の方で人形たちを持つ手が、女の子から男の子に変わっただけで、人形界の人形は何も変わっていないのである。

 

この映画は、「人形が人間になる話」である。一足先に死を考え始めて人間に近づいたバービーの導きによって、他のバービーもケンも自分の特別さを自覚し始める。バービーの上に立って従える”強い”存在でなくたってケンはケンであること。バービーたちにもそれぞれのやりたいことがあって、特別な存在として生きていること。そしてケンランドからバービーランドへ元通りになった……ように見えるが、それは以前のようなただの人形界ではない。それが”選んで手に入れた”ものであることで、より活力にあふれたかけがえのないものであることは間違いない。バービーとケンが死を手に入れたかどうかはわからないけれど、「変わること」を経験して昨日と違う今日を生きている彼と彼女たちは、一歩「人間らしく」なっている。

 

はじめに死に気づいたバービーは、他のバービーより一歩進んで「人間になりたい」と口にする。そのために手に入れた新しい「きせかえ」が涙で「死」だ。これまでのバービーランドにはなかった「崩れた」表情。だけどそれが新しいバービーの一部である以上、以前のバービーが不完全なもので、いまのバービーが足りなかったものを手に入れたとしか言いようがない。

 

人形は憧れを投影するものだけれど、その世界が完璧であるわけがない。それは「終わり」を兼ね備えた「本物」を真似てかたどったにすぎない。負けがあって弱さがあって、悲しい顔もできる完全な人間のバービーの笑顔で映画は幕を閉じる。同じ笑顔が、始まったときより明るく見えたのだから、世界は何か変わったのだろう。

 



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私のいる人間界にあるとある美術館には、「バービーと同じ「人形」と呼ばれるさまざまなかたちのものが集められていた。人の変わりに呪いをうけるために作られた古代の”ヒトガタ”や、貴族の子どもがおままごとを通して社会のふるまいを学ぶための雛のように役割をもったものは、目と鼻と口がそろっている程度のつくりでしかない。そのもので人の心を動かすために美しく作られた芸術作品は、微笑みだったり無表情だったり不格好さを感じさせないための緩やかな表情を強いられていた。『気楽坊』も『さぬのちがみのおとめ』『御産の祈り』も完成されて美しい造形だったけれども、もはやそれは人の形ではなく美の形をしていた。ここでもやはり、バービーランドの人形たちと同じようにだれも悲しい顔をしていない。

 

日本版バービー人形であるリカちゃん人形が同じ顔をして当時の女の子たちのあこがれのファッションに身を包んでいるのを見てただ”かわいい”と思うには私はいろいろなことを学びすぎた。『Barbie』のなかの表情豊かな「人間」を見てきて、長いものでは千年も前から同じ顔をしてこの世にありつづける布や木や紙の異常さをかみしめられずにはいられなかった。そして、私たちのあこがれや理想という名の「呪い」がかけられたまま動かないそれらを、純粋に眺めたり愛でたりすることができなかった。工藤千尋の人形たちはたくさんの感情が込められていて何かを語り掛けてきた、埋め込まれたビーズからそのとき雫が落ちてきたら、どんなに救われた気持ちになったであろう。人体サイズの≪Ko2ちゃん≫の周りのどこに居ても彼女と目を合わせることができなくて、彼女はわたしの視線のうちの性的で支配的なものを拒否しているようにも思えた。大人の目にしか触れさせられないがゆえに、歴史の流れから隔離されて展示されているラブドールたちを最後に見に行ったときは、そこに寂しさとやりきれなさを投影させずにはいられなかった。このように感じる時点で、憧れとは別の種類のあわれみという「呪い」をかけてしまっている。

 

あの人形たちに同情するとはいえ、それらがバービーのように人間になってほしいとは願わない。かわりに「人間にふれたい」または「人間でいたい」と思った。映画と展示のあと、弱くて悲しいときの情けない顔は、決して美しくはないけれども私たちが私たちらしくある当たり前の財産だと思える。

 

 

人形遊びをしなくなった大人が全員、その人形たちに「着せて」いたかわいさや強さを今の自分自身の身につけられているとは限らない。いまの私が着られる服を着ていられればそれでよい。そうして憧れや夢がかたちを変えていくのが、人間のいのちである。

 

 

向井くんがただの”元カレ”と告げられた『A Brighter "Sunny" Day』のこと

 

 

2023年8月14日から8月20日までに見たもの

 

 ”夏は恋の季節”などというのはまやかしのはずである。暖められてじめついた空気にさらされ続け、少しでも冷たいものに触れていたいと思うようになるのに、同じくらい温かくてべたついた人肌が恋しくなるとはいったいどういうことか。

 


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陽の出ているあいだは確かに苦しいが、夜になってしまえばむしろ他の季節より過ごしやすくなる。『牯嶺街少年殺人事件』に登場する少年たちが通うのは中学校の夜間部で、子どもなら普通は家に帰っている時間に学校に集まって活動をしている。舞台となる1960年の台湾の街はまだ十分にインフラが整備されていなくて、空に呼応した闇が外を包んでいる。その闇を照らすためにシャオスーが手にしたのが、学校のとなりのスタジオから盗み出した懐中電灯。彼はその光で夜に起こるさまざまなものに光を当てて、見つめていく。校舎裏で隠れて乳繰り合うカップルを見つけたことにはじまり、遊びで友達に向けたり自分の寝床で明滅させたり、常にその光を肌身離さず持ち歩いていた。台風の夜、対立するチームを襲撃したときに目の当たりにした、血を流してうずくまる相手のリーダーも彼の手で照らされて初めてその姿が浮かび上がっていた。恋愛、友情、縄張りのこと、試験がうまくいかず夜にはじき出されてしまった青春を彼は自分の手で照らしていく。

 

それでも、彼に見えてるものは決してすべてではないのである。彼が暮らす小さな町の夜にわずかな光で見える範囲など取るに足らない狭い狭いものだ。彼のいる小さなグループどうしの諍いなど些細なことで、シャオスーにとって恋敵でもありグループのリーダー・ハニーは台南まで行ってより広い世界を見ている。そんなこと、恋に落ちたシャオミンのことしか見えていない彼にはわからない。そしてシャオミンにも自分しか見えていないに違いないと思い込んでいる。仲間を背負い闘って死んだハニーや転校してきて外から色んな面白い物を持ち込んでくれるシャオマーを差し置いて「君を守る」なんて、そうでなければ堂々と言えるわけがない。恋をしているシャオスーに見えているのは、そんな小さな小さな世界のことだけだ。

 

彼の姉が、ワンマオに頼まれて聴き取った”A brighter summer day"というエルビス・プレスリーの曲の歌詞が本当は”A brighter sunny day”であるのと同じように、彼はその目の前の世界を正しく感じられていない。シャオミンにとってのシャオスーは、"summer"ほど大きなものではなく、ひとつの”sunny day”の小さな思い出にすぎないのだった。学校の保健室、母の療養する診療所などシャオミンがいるところはいつも陽だまりにつつまれていて、シャオスーと住む世界が違うことはずっと明らかだったのである。でも、プレスリーが確かに”summer”としか聞こえないふうに発音しているのだからどうしようもないのと同じように、闇のなかを生きていたシャオスーがそのことに気づけなかったこともしかたがなかったのである。彼がなにかを変えなければならなかったとすればそれは、懐中電灯を手放すことではなく、正面から試験を受けて「昼」を目指すことだった。最愛の相手を殺めてしまう悲劇に逸れないように必要だったのは、自分が照らせる世界の狭さに目をつむることではなく、ちゃんと広い世界を知ることだったのではないだろうか。

 


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水曜日の夜に放送された『こっちむいてよ向井くん』の第6話も、主人公に見えていなかった世界と時間を目の当たりにさせられる終わり方だった。

 

共通の友人のはからいで再会し、忘れ物をきっかけに元恋人・美和子と再び会うようになった向井だったが、彼女の家に入り浸るようになってから、自分と離れているあいだに美和子が時間をともにした他の男性の痕跡を見つけることになる。一方の美和子も、”普通の幸せ”を手に入れたかのように見えていた大学の同級生が、自分の人生に悩みながら主体的な選択を重ねて納得のいく人生を送っていたことを知って自身の身の振り方に疑問を感じる。向井も美和子も、再会して10年前に戻り止まってしまっていた時間が一気に動き出した。そこで前に踏み出そうとしたときに見えていた未来がそれぞれ、「俺たち付き合ってるよね」と「(向井は)元カレ……」だったわけである。

 

昔の向井くんも、シャオスーと同じく美和子に「君を守る」と誓ってから関係性にほころびが見え始めた。向井だってシャオスーと同じく、美和子の未来を照らすのは自分しかいないと思い込んでいた。そして美和子もシャオミンと同じように、そう言ってくる相手以外との時間を広げていた。向井にとって人生のなかの重要な「季節」(=summer)だった美和子と再会してからの日々は、美和子からしてみればただの移ろう天気(=sunny)のような気まぐれだったみたいだ。

 

『こっち向いてよ向井くん』の現代東京はどこだって明るくて向井はシャオスーと違いまっとうに”昼間”を生きている。そして『牯嶺街少年殺人事件』のように”力”がものをいう社会でもない。そこで生きる、歳を重ねてちょっと経験が豊かになった33歳にさえ「君を守る」とか言わせてしまう魔物はいったいどんなやつなのだろう。それはきっと”夏”とかいうもわっとした空気でもなく、人間がつくりだした実体があって切羽詰まったものな気がする。そもそも”夏”じたいがまやかしでただの”よく晴れた日の連続”に過ぎないのではないか。「俺たち」もしっかり冷たい目でいろんなものを見つめて、明るいところを生きていこう。