あちらこちらで ~勝手に2本立て鑑賞日記~

映画館で、テレビで、美術館で……ところかまわずその週見たものたちをひとつの感想にこじつける

『メイ』さんと「イワクラせいや警備保障」の若手芸人たちが後にした部屋

 

 

2023年10月23日10月29日までに見たもの

 

誰かの暮らしをのぞき見ることは、ほとんど映像によってしか許されない。わたしがけっして入っていけない場所で生きる人に迷惑をかけることなく、こっそり他人の温度を感じることを求めて日々この目でいろんなことを見ている。


東京国際映画祭は、そのための恰好の祭りである。アジアを中心に世界中の人の生きているところを映した映像が街じゅうにあふれることになる数日間だ。スクリーンの前で座って目を開けているだけで、街を行き交う人にたいしてはできない濃度で、遠く離れた人やそのひとが生きる場所のことを知ることができる。

 


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初日の月曜日、中央の広場ではレッドカーペットが行われているかたわら、エリアの片隅の映画館で夕方上映されていた『メイ』(原題:梅的白天和黑夜)を見た。少ない情報しか事前につかめない映画祭ならではの得体のしれなさだが、”上海”の暮らしも”老女”の暮らしも、どちらもこんな機会でもないとみつめることはできないだろうと、楽しみにしていた。

駅で携帯電話に向かって話しながら歩く女性。誰と待ち合わせをしているのかと思っていると現れたのは同年代か少し年下の男性。(そもそもメイさん本人が着込んでおり髪が長く、顔も形も輪郭が見えないせいで年齢がわかりにくいのだが)。まるでマッチングアプリで出会った若人たちのようにご飯を食べながらあーだこーだ身の上話を交わす。交わすといってもほとんどがメイさんのターンなのだが。そのやかましさは同じ年齢の男性ではあまり醸し出せないであろう。都度はさまれる部屋での彼女の様子を見るかぎり独り身のようだが、外に出ると少なくない老人仲間と活発に交流していて、孤独ではないようすがうかがえる。

 

彼女は住む部屋を探している。たしかに今住んでいるところは物が多く手狭そうだ。不動産屋でも変わらずやかましく、適度にあしらわれつつ運転する店員の背中にがっちり掴まりながらバイクにのって内見に向かうときはさすがに静かで、過ぎ去るビル群の背景もあいまって彼女の社会的・生物的な無力さがむきだしになっていて、このあたりから愛おしさを感じてくる。

 

そういう言葉を口にして悲壮感を漂わせることはしないけれども、彼女や他の老人たちにとって”孤独”をどうするかはとても切実な問題のはずである。笑っているし踊っているけれども、ひとりでなんでもできる力があるわけでもないのだから、なんとか時間を使い切るためにみんなでいる感じもする。若者たちが集まっているような熱さや輝きはなく、必要でそれ以外によりよい時間の過ごし方がないから集まっている雰囲気は、上海特有の重たい天気のせいで感じるのではきっとない。メイさんが住む部屋だって手狭そうではあるけれども暮らしに十分の広さで、ベッドに眠る姿はむしろ、彼女のぶんだけ空いた隙間にすっぽり嵌っているようだ。

 

孤独ではなさそうだけど、相手を探す。暖かい住処はあるけれども家を探す。そういったどうしようもない孤独とともにあるところに、国境も年齢の差も越えて共感してしまった。引っ越しの荷物といっしょにトラックの荷台に乗せられていくメイさんの背中を見ても、これからもどこか物足りないぬるい日常が続いていく予感がし、実際映画のラストシーンはファーストシーンと同じ駅の待ち合わせに戻るのであった。

 


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数日後の夜テレビに映っていたのは、一人暮らしの老人とは真逆の三人暮らしの若手芸人の引っ越しの様子であった。水曜日の夜深くに毎週放送されている『イワクラせいや警備保障』は、シェアハウスにカメラを設置して、そこに暮らす人たちのようすをのぞき見する番組である。そこでは共同生活のうちにできあがった日常がどんどん外の世界へさらけ出されていく。家の中での当たり前は、家の外からみたらもちろん珍しいことだ。ゆえにカメラで撮られた映像は、イワクラにとってもせいやにとってもテレビの前の私たちにとっても可笑しかったり羨ましかったり、非日常的な心の動かし方をしてくる。

 

その日カメラが入っていたのは、なかむら(9番街レトロ)、かつやま(とんかつ街道)、ヤス(ナイチンゲールダンス)が暮らす歌舞伎町の一室。普段ステージの上から観客を笑わせることを生業としている芸人たちが、誰を笑わせるためでもなく自分たちが楽しむためだけにつくられた”ノリ”をみているのは恥ずかしくもなるけれども、前途多難な人生を楽しく歩むためにはこれくらいあっけらかんとしていなくてはなと安心する気持ちもある。

 

数週間前に放送されたのは、そんな彼らがなぞかけクイズを楽しんだりもう夜も更けようかという頃に飲み会を始めたりする様子だったが、今回は彼らがその部屋を引き払うために片づけをする一晩にフォーカスがあてられた。引っ越してきてきっと初めて風呂を掃除するところだったり、仕事でつかう道具をはじめとして部屋にたまっていったあれこれを仕分けてまとめるさまなどリアルな作業を面倒くさそうに行うが、片付いた部屋の隅で三人並んで思い出を語り合う動画を撮影しているところをみると、青春の1ページをまざまざと見せつけられているのだなと思う。たしかにここに根を張っていたけれども、こんな一瞬の出来事はすぐに過去になってしまいそうな淡さ。どの時間も孤独とは無縁で、それに気づいたら走るのを止めてしまいそうになるからあえて騒がしい生活を送っているのだろうか。その理由は上海の老人たちが公園で集まるのと本質的には変わらないのかもしれない。

 

積み上げられた荷物たちが運び出されていくところまでカメラが追うことはなかった。引っ越しはあくまで寝泊まりする場所を変更するための形式的な作業で、本人たちの居場所は劇場であったりカメラの前にすぎないとでもいいたげに、荷物を後に仕事に向かっていく若手芸人たち。その背中はトラックの上のメイさんとは違って、軽やかで堂々としていた。メイさんにももしかしたらそういう時期があったかもしれないし、若手芸人たちも夢をあきらめるか叶い終えるかして孤独な老人になるかもしれない。

 

それぞれの暮らしが老後だからといって薄っぺらいわけでもなく、夢を追いかけているからといって粗雑なわけでもなく、そこで眠ってお腹を満たすからこその人間らしい温かみがあった。だから部屋をあとにするのは、その先に待つのが変わらない日常であるにせよ夢に近づく一歩であるにせよ、寂しいことである。

 

なんてことをどの人にも無関係だからこそ勝手に思っていられるから、のぞき見させてもらうことはとても楽しい。