『アステロイド・シティ』で居合わせた『無修正』の人たちのかけがえないイマ
2023年8月28日から9月3日までに見たもの
”見る”ときは、見る人と見られる人がいて、見られる人がそれに気づいていなくても他の人は”見る”ことができる。それは少し危ないことでもある。それでも安全に”見る”ためには、”見せられるもの”を見る必要がある。時間と情熱をかけられたものに視線を向けるというひとつの簡単な仕草だけで知らない世界に旅することができる。映画や舞台を見るとはそういうことで、だからこそ私はそれが好きなのだと思う。
空気階段のコントはたいてい、"出会う"ことから始まる。人間としては異形といえるほど太ったもぐら演じる異質な他者にかたまり演じる常識人が振り回されるという"人と人との出会い"のレイヤーを基本に、時折その奥に世界に隠された未知なる道理を知ること、すなわち"世界との出会い"をすることもある。たとえば第6回単独公演『無修正』の2本目のコント「潮騒」は、北島ファミリーの演歌歌手・潮騒の付き人をしているかたまりが、"北島ファミリーは、小室ファミリーに対抗するためにウォシュレットから出る水に薬物を混入させることを試みる組織である"という事実が横たわった世界に出会う。もちろん荒唐無稽な陰謀論めいた設定なのだが、混沌さをます現代のなか特に異常さが露呈しつつある芸能界の話となるとどこか信じてもいい気がしてくる。
そうやって、空気階段のコントで起こる”未知との遭遇”は、真面目ではない人や出来事を通して私たちにもたらされる。「ふたりのワイドショー」も同じく芸能界のなかのテレビを舞台に、MCの風水師とゲストの女社長が出会う。「は」で歯と出会うのも借金を抱えたふまじめな青年である。空気階段のコントで起こるのは、非日常のなかで異質なものどうしが居合わせることである。そして自分の異常さに気づいていない人が披露する常識に、コントの登場人物も観客も振り回されることを楽しむ。ponpokoがオフ会で出会う、何人ものユーザーを一人で演じる人も、ふたりのワイドショーの前時代的な価値観をもつ女社長も、それが当たり前に起こる社会では楽しくない。
そうやって常識はずれの行動をとることで”はぐれもの”とされてしまった人たちに対して、最後に救いの手を差し伸べるのが空気階段の単独公演だ。最後のコントは、どんな星でもうまく生きられず迷惑をかけてしまった宇宙人(もぐら)が、「7-7」のはずれ馬券を集めて願いを叶える話。文字通り異星人の彼に出会った競馬場通いの青年(かたまり)は、「ふたりのワイドショー」に登場した女社長に恋をしていて、その恋を叶えるために手伝うことになる。労働者を搾取する悪しき経営者でも誰かの心のよりどころになっていたり、恵方巻に「背が高くなりたい」と願いを込めたことで誰かの大事なものを火事から守ることができたり、どこかの”おかしいこと”が他の理不尽さを解決することがある世界がここにある。世の常識にとらわれて並大抵の人生を送ることで満足しない「変な」人たちが遠くでつながりあって、ひとつひとつの歪さをまあるくおさめていく。小さな奇跡を重ねて物語は、はじめは異質な他者どうしだった二人が、長い時間をかけて起こした奇跡を捧げるほどの「友達」になることで結ばれる。最後は宇宙の遠くに飛んで行ってしまうけれど、どれだけ関係ないところにいても知らないところで助け合えるこの世界で、その距離は意味のない隔たりだ。
カラオケボックス、テレビのスタジオ、潜水艦と彼らが出会う世界は小さい箱だ。そこで閉じ込められることで深く関係しあうことになる『無修正』な人たちが、もっと広い世界の一部であることを、最後に広い宇宙を見た私たちは知ることになり、なんでも許せる優しい人間になった気がする。
『アステロイド・シティ』も、そこに居合わせた人たちが閉じ込められる物語だ。そうでなくたって、この砂漠の街は演劇のためにつくられた架空の存在で、創作物のなかに脚本家が人々を閉じ込めたものである。書き割りのように絵画的な街の景色を背景に、直線的で戻らない時間に乗って、87人しかいない街の住人と、”子どもがジュニア科学コンテストにエントリーしている”というだけでつながった人々の悲喜こもごもが演じられる。
コンテストの参加者の一人・ウッドロウを連れてきた父・オギーは、戦場カメラマンとして窓の外にたちのぼるきのこ雲やカフェで隣に居合わせた女優・ミッジなど、目の前の出来事をフィルムに記録していく。今を確実に捉えることを生業としている。しかしアステロイド・シティにやってきた彼は、妻が亡き人となった過去から前を向けておらず、そのことを娘たちに伝えずにいる。
同じく天才キッズのダイナを連れてやってきた母・ミッジは、来る映画の撮影に向けて演技を練習している。彼女は未来のことを繰り返している。オギーとミッジは隣のモーテルに泊まることになり、窓越しに同じ時間を過ごすようになる。この出会いによってオギーに変化が訪れる。
かと思いきや、宇宙人との遭遇というセンセーショナルでアンフォゲッタブルな今にすべての視線が集まり、人々は街に閉じ込められる。「見なかったことにしろ」と命じる大人たちに、子どもは反抗的だ。いや大人に反抗しているのではなく、道理に従順なのだ。見てしまったものは忘れられない。あったことはなかったことにできない。そういう人生の戻らなさを、彼らはよくわかっている。なら、オギーにとっての妻の死もそういうものだろう。手に負った火傷のように、ミッジとの夜についてダイナの目に焼きついた映像のように、それは剥がすことができなくてずっとそこにあるものではないか。母の死を意外とすんなり受け入れ、遺灰は実家のゴルフ場に持っていくことなくアステロイド・シティの砂の下にことにした娘の三つ子のほうが、そのことをよっぽどわきまえている。彼女の死を、どこかへもっていくことなどできない。
舞台の裏で母親を演じるはずだった女優とオギーはこんな言葉を交わした
「現像できるかしら」
「できるさ、私の写真だ」
そう。オギーは「焼きつける」ことで生きているのだ。
やがてディスクロージャーが解かれたアステロイド・シティを人々は後にする。オギーが背負っていた過去はモーテルの間の砂に埋まっていて、代わりに私書箱の住所を記した一枚の紙切れにを手にする。ミッジが未来を繰り返すことに付き合い続けるのではなく、女優の皮を剥がれたひとりの人間としての彼女と、彼はどうやらつながりつづけていくみたいだ。
一度始まったら終わらない、巻き戻ることのない人生という演劇を、テレビが映す現在のなかに閉じ込めたのが、映画『アステロイド・シティ』だ。劇作家はこの劇のテーマを"永遠"だと語る。しかし自らの死をもって、永遠などないと証明してみせる。あるのはそこに居合わせた人との間にある今だけだ。それを焼きつけて、次の今に出会っていくしかないのだ。
『無修正』の世界でも、『アステロイド・シティ』の世界でも、さまざまな"未知との遭遇"が起こる。遭遇するまでの時間を共有していない、むき出しの人間どうしが居合わせて影響しあって、なかったことには戻れなくなって、そうやって生は積み重なっていく。それは、外側にいる私たちと作品との境界でも起こっていることで、もしかすると同じ時間で見ていた隣の人とも起こっていることかもしれない。私の願いも、そんな誰かに託してみようかしら。