あちらこちらで ~勝手に2本立て鑑賞日記~

映画館で、テレビで、美術館で……ところかまわずその週見たものたちをひとつの感想にこじつける

『Barbie』と松涛美術館の「ボーダレス・ドールズ」たちに悲しみの涙を

 


2023年8月21日から8月27日までに見たもの

子どものときは人形遊びを良くしていた。人間の顔をしたお人形を使ったおままごとではなく、戦隊ヒーローやウルトラマンと敵の怪獣や怪人のソフビを動かして戦わせて遊ぶヒーローごっこだった。そこではどのフィギュアも強くてかっこよくて、なりたい私がそこにいた。



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映画『Barbie』の冒頭でドール片手におままごとする女の子たちと”男の人形遊び”をしていた私とは、違うようでいて人形に自分のなりたい姿を重ねていたところは同じといえる。

 

そのあとキャメラは人形たちが暮らす「バービーランド」に入っていく。街は色鮮やかでどの人形たちもみんな笑顔で楽しそうである。労働はするけれどそれは誰もが輝かしく活き活きとしているためにすることで、対価としてお金をもらうために苦しんですることではないらしい。夜になれば集まってパーティをする。笑いあって夜を明かして、次の日も同じような朝を迎える。

 

ここには不安や怖さがない。なぜなら「死」がないから。人形たちには必ず1秒先があり、明日があり、それを永遠に繰り返していくことに疑いがない。だからパーティーの途中でバービーが「死について考えた」ことを口にした時間は、まるでそこだけ切りとられて存在しないみたいに流されてしまう。人形とは一般的に人の形をした無機物のことだけど、この映画の人形たちは動くこと話すこともできる。命は宿っているけどそれは終わりのないもの。ここで人形は人間から「死」を引き算した存在なのだ。

 

「死」の概念が生まれてしまったバービーは、他の人形たちと同じ種類のものではなくなり、より近い種類の存在がいる「人間界」へと向かう。そこには、「人形界」にないいろいろなものがある。他人をさげすむ目線、働いて疲れる体、老い、お金。”バービー”と”ケン”の二種類しかほとんどいない元居た世界とは違って、全員がそれぞれ特別な誰かであるために何かを背負っている。子どもから大人まで、時間がたてば変わるかたちに応じて昨日と違う今日を生きている。それまで見ていたバービーランドの明るい色をした街と比べると、怖い顔をしている人間ばかりいる世界ははじめ”完璧じゃない”ように見える。しかし果たして明るく笑顔の絶えない生活は「完全無欠」なものなのか、それとも悩みや怒りを「欠いている」のか。

 

持ち主のグロリアと娘を連れて帰ったバービーランドは、前とは打って変わってケンがバービーを従えている世界になっていた。人形界は変わってしまったようだが、大きくは何も変わっていない。役割が変わっただけで本質的には無色でありふれた個体しかいなくて、システムがあってそれのコマとして意思なく操り手の思う通りに動く。人間界の方で人形たちを持つ手が、女の子から男の子に変わっただけで、人形界の人形は何も変わっていないのである。

 

この映画は、「人形が人間になる話」である。一足先に死を考え始めて人間に近づいたバービーの導きによって、他のバービーもケンも自分の特別さを自覚し始める。バービーの上に立って従える”強い”存在でなくたってケンはケンであること。バービーたちにもそれぞれのやりたいことがあって、特別な存在として生きていること。そしてケンランドからバービーランドへ元通りになった……ように見えるが、それは以前のようなただの人形界ではない。それが”選んで手に入れた”ものであることで、より活力にあふれたかけがえのないものであることは間違いない。バービーとケンが死を手に入れたかどうかはわからないけれど、「変わること」を経験して昨日と違う今日を生きている彼と彼女たちは、一歩「人間らしく」なっている。

 

はじめに死に気づいたバービーは、他のバービーより一歩進んで「人間になりたい」と口にする。そのために手に入れた新しい「きせかえ」が涙で「死」だ。これまでのバービーランドにはなかった「崩れた」表情。だけどそれが新しいバービーの一部である以上、以前のバービーが不完全なもので、いまのバービーが足りなかったものを手に入れたとしか言いようがない。

 

人形は憧れを投影するものだけれど、その世界が完璧であるわけがない。それは「終わり」を兼ね備えた「本物」を真似てかたどったにすぎない。負けがあって弱さがあって、悲しい顔もできる完全な人間のバービーの笑顔で映画は幕を閉じる。同じ笑顔が、始まったときより明るく見えたのだから、世界は何か変わったのだろう。

 



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私のいる人間界にあるとある美術館には、「バービーと同じ「人形」と呼ばれるさまざまなかたちのものが集められていた。人の変わりに呪いをうけるために作られた古代の”ヒトガタ”や、貴族の子どもがおままごとを通して社会のふるまいを学ぶための雛のように役割をもったものは、目と鼻と口がそろっている程度のつくりでしかない。そのもので人の心を動かすために美しく作られた芸術作品は、微笑みだったり無表情だったり不格好さを感じさせないための緩やかな表情を強いられていた。『気楽坊』も『さぬのちがみのおとめ』『御産の祈り』も完成されて美しい造形だったけれども、もはやそれは人の形ではなく美の形をしていた。ここでもやはり、バービーランドの人形たちと同じようにだれも悲しい顔をしていない。

 

日本版バービー人形であるリカちゃん人形が同じ顔をして当時の女の子たちのあこがれのファッションに身を包んでいるのを見てただ”かわいい”と思うには私はいろいろなことを学びすぎた。『Barbie』のなかの表情豊かな「人間」を見てきて、長いものでは千年も前から同じ顔をしてこの世にありつづける布や木や紙の異常さをかみしめられずにはいられなかった。そして、私たちのあこがれや理想という名の「呪い」がかけられたまま動かないそれらを、純粋に眺めたり愛でたりすることができなかった。工藤千尋の人形たちはたくさんの感情が込められていて何かを語り掛けてきた、埋め込まれたビーズからそのとき雫が落ちてきたら、どんなに救われた気持ちになったであろう。人体サイズの≪Ko2ちゃん≫の周りのどこに居ても彼女と目を合わせることができなくて、彼女はわたしの視線のうちの性的で支配的なものを拒否しているようにも思えた。大人の目にしか触れさせられないがゆえに、歴史の流れから隔離されて展示されているラブドールたちを最後に見に行ったときは、そこに寂しさとやりきれなさを投影させずにはいられなかった。このように感じる時点で、憧れとは別の種類のあわれみという「呪い」をかけてしまっている。

 

あの人形たちに同情するとはいえ、それらがバービーのように人間になってほしいとは願わない。かわりに「人間にふれたい」または「人間でいたい」と思った。映画と展示のあと、弱くて悲しいときの情けない顔は、決して美しくはないけれども私たちが私たちらしくある当たり前の財産だと思える。

 

 

人形遊びをしなくなった大人が全員、その人形たちに「着せて」いたかわいさや強さを今の自分自身の身につけられているとは限らない。いまの私が着られる服を着ていられればそれでよい。そうして憧れや夢がかたちを変えていくのが、人間のいのちである。