あちらこちらで ~勝手に2本立て鑑賞日記~

映画館で、テレビで、美術館で……ところかまわずその週見たものたちをひとつの感想にこじつける

13歳のレオとすがちゃん最高No.1が大人に『CLOSE』した話

 

 

2023年7月24日から7月30日までにみたもの

 

大人になるにつれて、子どものころの当たり前がどれだけ特殊だったかを思い知っていく。むしろ、そうやって外側の世界が流れ込んでくることそのものが、大人になる手順ともいえる。

 

 

ダメージジーンズを履いた青髪の信子と伸ばした髪をピンクに染めオーバーサイズのパーカーを着たきょんちぃの間に挟まれたチャラ男のトリオ・ぱーてぃーちゃん。二頭の暴れ馬の手綱を握る役割にみえるリーダーにこそ、脇の二人のルックスのように強烈な印象を残す身の上話があることが明かされたのが7月24日23:15から放送された「激レアさんを連れてきた」だった。

 


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両親や祖父母がさまざまな理由で次々と家を出ていき、中学一年生のときに気づいたら一人暮らしをすることになっていたすがちゃん最高No.1。料理も洗濯も知らないたったひとりの子どもが、学校の友達を介してふれる大人たちの生活から自分に必要なことを学び、周りに心配されないように普通の暮らしを装うのは苦労に満ちていたはずだが、どの話も発見のよろこびと工夫の豊かさに驚かされるばかりで楽しかった。みそ汁に出汁を入れることや洗濯機の動かし方、私たちが誰かから「そういうものだ」と教えてもらってすることを、すがちゃんは自分でその必要性に気づき、友達のお母さんの家事をのぞき見してやり方を学んでいく。MC・若林の相方で節約にこだわる春日がテレビで紹介していた”ダクト飯”(他人の家の換気扇から出てくる匂いをおかずにご飯を食べる)に、(おそらく年代的に)春日がテレビでそれを披露する前からたどりついている。

 

一人暮らしをしている仲間が周りにおらず、そのことを誰にも教えていないから、誰かに教えてもらうことができない。その寂しい状態に「狼」と名前を付けて飼いならしていたとはいえ、とても孤独な戦いだっただろう。

 

時を経て初恋の人と再会したすがちゃんは、彼女に「学生のとき、大変だったでしょう」と告げられる。誰にもバレていなかった一人暮らしのことはクラス中が言葉にせずとも共有していたらしい。自分たちには共感できない辛い出来事だから、手を差し伸べることもできないだろうと察知する子どもたちの優しさには、希望を感じる。それを言葉に出したとき彼女の目に涙が浮かんでいたとすがちゃんが話すのだから、彼の語り口とは裏腹にその辛さは明らかなほどだったのだろう。だが、ひとり暮らしのことをみんなが知っていたとわかったことは救いでもあるはずだ。誰にも明かさずっと秘めていたすがちゃんの暮らしに優しいまなざしがあることで、「狼」だった彼が優しく包まれたような感じがする。

 

人並外れた境遇を「漫画みたい」と面白がるすがちゃんも、優しさから不干渉を選んだクラスのみんなも、傷つけあわずに済んでよかった。みんな大人になってそのときの気持ちと距離ができたからできる笑い話のはずだが、子どもは強いなと感心もしてしまった。

 


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映画『CLOSE』でレオや周りの人たちが体験するのは、すがちゃんのそれとはまったく度合いが違う、大人になっても笑い話にはできない心の痛みだっただろう。

 

幼馴染のレミとずっと一緒にいたことを茶化されたのが嫌で、突き放してしまったレオ。そのわだかまりが消えぬまま、レミはこの世を去ってしまう。その理由や去り方について映画は言葉にしない。それはレミの魂と一緒に、もう触れることができないものとしてどこかに行ってしまう。他のクラスメイトと語り合うことを通して悼もうとするけれども、レオを苦しめる喪失は他のクラスメイトが抱えるものとは違うものだから、なかなかうまくいかない。そんななか、もしかしたら近いものを持っているかもしれないとレミの母・ソフィを見つめ接近していく。レオが練習するアイスホッケー場にソフィが出向いたり、レオがレミの部屋を見にソフィのいる家を訪れたり、2人の心に沈んだものを分かちあおうと近づいていくけれども、レオはなかなか言葉に出せない。

 

まだレミがいたときにそうしていたように一つのベッドで兄と体を近づけあったとき、レオはそのよくわかっていなかった気持ちを「会いたい」と象って声に出す。そしてソフィの病院まで出向き、2人きりの車内でレミがいなくなる前に何があったのかをソフィに明かす。

 

レミの死後自分を罰するようにアイスホッケーで激しく体をぶつけたときにできた骨折が治癒してギプスを外したとき、その手のぎこちなくも確実に何かを捉えた動きをみて、骨と骨だけでないすべてがひとつになったような気がした。ソフィとレオ、レオと「会いたい」の気持ち、レオとレミ……壊れたものどうしがゆっくり近づいて一つになりまた動き出すまでの、何もできないけれども待つだけではどうにもならないあの時間をわたしたちは目撃していたのだ。

 

レオもすがちゃんも、それぞれ一人暮らしと喪失といったはじめての経験を前に、周りの誰とも苦しみを共有しようとせずに、自分でその答えに近づいていった。自分のためにすることだから、真に悩めるのは自分しかいないのだけれど、大人はなんとなく誰かに共感してもらおうとなんとなくちょうどいい言葉を見つけて誰かに話したりするものだ。子どもだから言葉にできない、なんだか得体のしれないものに立ち向かった二人は、番組と映画がはじまったときより大人びて見えた。そして、彼らが大人に変わっていくのをそっと見守る周りの人たちの温かさも忘れられない。最終的にその温かさと彷徨っていた孤独とが接する瞬間のに、自分もどこかで触れてきたのだろうと思いを馳せた。

 

大人になることは、言葉にすることなのかもしれない。その手前の言葉にならない時間の愛おしさも、たまにこうして思い出していきたい。