あちらこちらで ~勝手に2本立て鑑賞日記~

映画館で、テレビで、美術館で……ところかまわずその週見たものたちをひとつの感想にこじつける

ここはBEYOOOOONDSが武道館で歌う“やさしい世界”か、囲碁将棋が「THE SECOND」で勝ち進む“正しい”世界か

※noteで書いていた記事を移行したものです。

 

2023年5月15日から5月21日にみたもの

 

 ライブは、それを演っている人と見ている人で成り立っている。ライブに行く人にとっては当たり前で、わざわざ時間と労力を割いて足を運ぶ理由であったそのことをこの3年ですっかり忘れていた。

 BEYOOOOONDSの武道館公演『NEO BEYO at BUDOOOOOKAN』の一曲目からオタクのコールを浴びたとき、アイドルのライブとはこういうものだったと、一気に身体の奥底まで染み渡ってきた。いや、本当は開演直前に下の方で「高瀬くるみさーん!」と叫ぶのを聞いたのがきっかけだった。パフォーマンスする者が見ているものに一方的に語りかける行儀の良いものではなく、かよわい乙女たちには手懐けられるはずない滾った獣たちが暴れまわるのに圧倒されまいとそのか細さからは想像できないパワーを発揮する。そのカオスさこそ、アイドルのライブだった。自粛期間中にハマったから、それをハロプロで体験するのははじめてだったが、ここでもそういう光景があることに感動した。

 一年前の武道館公演で小林萌花がBEYOOOOONDSのことを「やさしい世界」と表した。生きているだけで素晴らしいとか、今が最高などのメッセージを歌にのせつづけ、メンバーどうしのいいところを見つけ伸ばしあっていく彼女たちにぴったりな言葉だ。だけどその世界があるのは、BEYOOOOONDSと彼女たちのことが好きなファンでできた小さく閉じた空間だけだ。現状肯定をわざわざ謳うのは、それが自然にできない世の中があるからだ。”ニッポン”の”未来”になんども言及するのは、今のこの国を憂いているからではないだろうか。

(去年の武道館公演を見た後に書いたブログ)
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 そこから一年経ち、相変わらずパフォーマンス力に裏打ちされたエンターテイメント性と遊び心に満ちたステージを見せるなか、終盤に変奏が訪れる。残すところあと数曲であることがMCで告げられた後、ステージの背景に星空が浮かび上がる。それは先日発売された曲と今ツアー初披露の新曲で歌われる”夜空”でありその向こうに広がる”宇宙”だった。屋内では見られないはずの景色。”NEO” BEYOOOOONDSは「やさしい世界」を武道館の外に開いたのだ。世界より広い宇宙へ。眼鏡の男の子と私のミクロな関係から始まったビッグバンは、ニッポン、世界と広がっていき、銀河まで飛び出した。一岡伶奈が歌う「夢さえ描けない夜空には」の落ちサビ「もしもそう思えない世界ならいま」はもう仮定ではなく、武道館の外に広がる”そう思えない”世界に立ち向かっていくために背中を押しているようにも聞こえた。この先に待つ未来、コンサートが終わっても、アンコール後に歌われたように”Beyond the world"して。目の前のファンを楽しませるにとどまらず、それを取り巻く世の中を「やさしい世界」にしていく。そういうグループになっていくのだろう。

 週末にテレビでみた「THE SECOND~漫才トーナメント~ グランプリファイナル」には、週の初めにみたガールズグループとは真逆の、芸歴を重ねた”おじさん”たちしか出ていなかった。だけど舞台の形ひとつだけをとれば、演芸を披露する側とそれを見る側が一本の直線で仕切られないような構図をともにしていた。そして観客がこれから先のラウンドに進む芸人を決める運命を握り、審査コメントも観客が担う、これまでではみられないほど観客と芸人がインタラクティブな関係となり進んでいくお笑い賞レースだ。

 スピードワゴンテンダラーの技術に裏打ちされたコント漫才ギャロップ囲碁将棋の芸人ならではの視点とワードセンスで会話を展開するしゃべくり漫才など本流を行く漫才から、お笑いファンにしか名が知れていない芸人の名前を次々と出していく三四郎のネタや5人のコンビネーションでの掛け合いを見せる超新塾など、同じく”一番面白い漫才師”を決めるM-1グランプリでは決して見られないようなスタイルまで多種多様な漫才が披露されていく。

 放送上ではファーストラウンドとなる準々決勝で囲碁将棋に負けた超新塾がはなむけに贈った言葉、「囲碁将棋が勝ち進むことは『正しい』」にお笑いファンたちはうなずいたであろう。M-1グランプリの出場資格を持っていたころからファンと漫才師の間では評価されてきた彼らだったが、四年前のラストイヤーまでついに決勝の舞台に立つことはなかった。”ネタ選びを間違える”などと言われることがあったが、その言い回しに今なら違和感を覚える。囲碁将棋が一番面白いと思ってそれぞれのネタを披露したことが”間違っている”わけがない。ありえるとしたらM-1が描く漫才の美学にそぐわなかっただけである。それが今大会では、ネタ時間と審査方法の変更により彼らと彼らを評価し続けた人にとって「正しい」と思える結果となった。M-1の基準が間違っているわけではない。THE SECONDの基準M-1で披露される漫才のほうが面白いと感じる人ももちろんいるだろう。だがM-1が作ってきた価値が相対化されたことはとても意義が大きい。

 結局は囲碁将棋は西で彼らと同じように評価を受けながら日の目を見ないできた(2018年のM-1グランプリで決勝に進んだが、思うように自分たちの漫才ができずふるわなかった)ギャロップに僅差で負け、ギャロップがそのまま初代王者となった。自らのコンプレックスを題材にしたものから街でみた景色を題材にしたものまで扱いさまざまな種類の洗練された話術を披露したギャロップが最強と評価されることは終わってみるとこれはこれで「正しい」結果だったように思える。決勝の対戦相手・マシンガンズが披露した3本の漫才は、ボケとツッコみの掛け合いというより二人が観客に語り掛けるスタイルだった。特に決勝の6分間はその場で思いついたことを次々に口にしていくことで漫才ができていった。この日のこの形のステージではこれが一番だと評価されても納得するほど漫才でしか味わえないワクワクが詰まっている時間だった。しかし結局漫才を向けられていた人たちはギャロップの洗練された漫才がより良いと決めた。それがあの日あの場所あそこにいた人が作った正しい世界のことで、それはその外側にいる私たちにとってはどうしようもないことである。

 お笑いをはじめすべての演芸、芸術に正解などない。ただ、”一番面白い漫才師”を決めるとなればどっしり構えた権威に最も見初められたものが評価される目の前の客を幸せにする仕事をする人の価値は、それを見に足を運ぶ人が決めるのがまっとうなことだろう。

 BEYOOOOONDSの「やさしさ」がアイドルとファンの間の閉じた世界に守られていたように、THE SECONDの「正しさ」もお笑いファンの観覧客によって守られていた。この宇宙がやさしくて、正しい必要はない。やさしさにふれたくなったらBEYOOOOONDSのライブに行けばいいし、自分が正しいと思うお笑いが見たければライブに行けばいい。COVID-19対策のしかたが変わって、人と人がより濃く関係できるようになったことで、ステージの上と下の関係もより強くなったように感じる一週間だった。