あちらこちらで ~勝手に2本立て鑑賞日記~

映画館で、テレビで、美術館で……ところかまわずその週見たものたちをひとつの感想にこじつける

『怪物』に触れたい。背中に『aftersun』を塗るために。

 

2023年6月5日から6月11日にみたもの

 

 保利先生が湊を「殴った」責任を追及する母・早織。だが学校は殴ったのではなく、”保利先生の腕が湊くんの鼻に「接触」した”と言う。それに早織は憤りを示すが、学校側の言っていることに何の間違いもない。保利先生に傷害の意図があったがどうかなど、下手すれば本人でも確かめようがない。人間の意識の関せぬところで観測できることは、二つの物体の間に働いた作用と反作用のことだけである。その”接触”に、加害の意図があったかどうかが追及されるが、そのあと流れた実際の映像が語る分には、保利の加害する意図はみられなかった。これもこちらの主観でしかなく、”暴力”は客観的事実としては本質的にない。なにが暴力でなにが暴力にならないかは、つねに不安定な基準のうちに決まる。自分が殴りかかっても相手の急所に当たらないこともあれば、ちょっと小突いただけのつもりがあざをつくってしまうこともある。相手の見ている世界を同時に体験することができれば、人と人はもっとうまく触れ合うことができるだろうが、同じ時間を何度も行き来して互いの言い分を理解した映画の観客のように世界を見ることはできない。他人のことはわからない。傷つけやすい自分の「怪物性」に気づくとともに、傷つきやすい他人の「怪物性」も改めて思い知らされる。

 私たちが抱えるそのような他者ゆえの断絶は、大人と子どものあいだでさらに絶望的になる。早織が我が子を傷つけた担任に放った人格を否定する言葉をはじめとして、この映画の中で起こる大人どうしの諍いにおいては、みんな相手を傷つける意志を自覚していたり自分を守ろうとする後ろめたさを感じていたりするように、加害性が顕在している。一方、湊が鼻を怪我した件でもそうだったように、子どもが負う傷は負った側のみに感触がある。湊の鼻血は見えるものだったけれどもそんなの氷山の一角で、外からは見えない傷でぼろぼろになっていたことがやがて明らかになる。湊に”普通の家族”をつくることを求める母も”男らしさ”を求める保利も、子どもの将来を案じて元気づける言葉として投げかけている。その二人より明らかに刺々しく映る依里の父親だって、前提と目的は早織と保利とさして変わらない。大人の力で子どもに触れたら、それを大人にするよりずっと簡単に傷を負わせることができてしまう。その勾配は体格差だけでなく心と頭の柔らかさの差のせいでも生まれる。多くを知らないから、言われたことが”正しい”ことに聞こえてしまう。大人は少し触れただけのつもりでも、子どもの体重にとってそれは歩いてた道から落とされるほど大きな力になりうる。そんな力を受けて、子どもたちの居場所は街の真ん中からどんどん離れて、だれも踏み入れていない森の奥へと追いやられてしまう。そして、ラストは私たちにも見えないさらに奥へと駆け出してしまう。正面から見てくれる存在を見つけたこと、二人の居場所を作れたことは大きな救いだけれども、力をもった”大人側”にいる私たちからすれば、なんとも寂しい終わり方である。一回見ただけではすべてつかめなかった子どもたちの世界を、時間を巻き戻していろんな角度からみて触れ方を探っているうちに、彼らの時間は前に進んで新しいところへいってしまった。

 

 『aftersun』に横たわっていた不穏さもきっと、子どもには見えない素の心を持った父親の「怪物性」だろう。大人の世界のことはよくわからないから、父のこともよくわからなくて当然なのだが、ちょっとわかってきたふりをしたくなる年ごろのソフィーからしたら、子ども扱いして父親”らしい”振る舞いをされるのがどこか寂しいような表情が印象的だった。私を見守る顔ではなくて、私に背中を向けていたときの世界のほうを見つめる顔を見たくて、バカンスのビデオテープを見返す。父が見ていた世界のほうが、そこには映っているかもしれない。たしかに私には見えていなかった世界がそこには映っているけれども、彼のことがわかった気がしない。『怪物』では自分の見られなかった世界がどんどん見えていき、見ていた世界までもが裏返っていく体験があったけれども、『aftersun』はむしろ、同じ思い出がまた強く焼きつくばかりで、焼けた肌の下にある無垢な肌を思い出せなくなっていく。

 断片的な記憶のうちにある、よくしてもらっていたこと。私の背中に日焼け止めを塗ってくれたこと。自分の背中は自分には見えなくて手も届きにくい。だからお父さんは私の後ろに回って私の身体を陽射しから守ってくれた。なんであんなにしつこく護身術を教えてきたのか、この世界で女性として30年生きてきた今ならわかる。そうやって当時の私に見えていなかった私の背後に忍び寄るものを父の目は捉えていた。一方の私がしてあげたのは、彼の顔にローション(aftersun)を塗ってあげること。彼の日焼け自体を防ぐにはもう手遅れだけど、少しでも痛くない明日を私は彼にあげられていただろうか。

 『怪物』の湊と依里と同じく、カラムも最後はあっちへ”行ってしまう”。「もう一度見つめ返してくれれば」と残念に思う気持ちは、ソフィも、自分に見ていなかった子どもたちの世界が見えたあとの早織と保利も持っていただろう。息子または生徒に「わかっていなくてごめんね」言えたとして、それは日焼け止めの役割はできないけれども、それでももういちど触れてあげたいはずだ。そしてこれからは彼らの背中を守ってあげられるはずだ。

 

 怪物どうし触れ合わないでいれば、傷つけあわずに済む。だけど自分の目では見られないところ、手の届かないところに触れてくれる存在はいてほしい。ならば、押したり叩いたりではなくて、クリームを塗るくらいの手つきで撫でてみたらよいのではないだろうか。

「タッグ相撲最強コンビ決定戦」でビスブラ原田は「一緒に死ぬ」、そして『再生』する

 


2023年5月29日から6月4日までにみたもの

 


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 柔道や剣道、空手といった日本の他の武道が、両者の身体を俯瞰してその技が全体として”心・技・体”において相手を制しているかを判断し勝敗を決めるのに比べて、相撲の勝敗は力士の足の裏以外に土がつくかまたは足が土俵の外にでるかどうかの一点に集中し、その判定も人間の意志の存ぜぬところで決まる。どれだけ気圧されていようと、失格状態に相手を追い込めば勝ちになる柔軟さによって、体力差を逆転する結末がしばしば生まれるのが相撲の面白さだ。「水曜日のダウンタウン」の企画「タッグ相撲最強コンビ決定戦」はそういった相撲の柔軟さと2対2の構図が生む戦略の複雑さから、各芸人の体力と格闘技経験だけでは測れない意外な結果をしばしば生んだ。

 出場者の内で圧倒的な重量を誇る大鶴肥満も、相方檜原が早々に土俵外に突き落とされてゆんぼだんぷ二人の巨体を前にすればあっけなく押し出されてしまう。合計体重で大きく劣るトム・ブラウンは柔道で身に着けた技術によって、安田大サーカスのクロちゃんとHIROに対して戦略云々差し置いて土をつけることができる。なかでもこの大会ならではの勝ち方によって快進撃をみせたのがビスケットブラザーズだ。パワーで劣る原田が自分を押し出す相手を土俵外に引きずり下ろし「一緒に死ぬ」ことで自分の負けを数的不利に結びつけず、パワーに申し分ないきんと残った相手の一騎打ちに持ち込む戦略だ。1対1の相撲ならば、土俵の外に少しでも足がついた瞬間に戦士としての”死”が訪れるが、コンビの両方が負けるまで終わらないタッグ相撲では、負けた力士が闘うことが許される。決勝ではきんがみちおを倒しきることができず、トム・ブラウンが優勝することとなったが、初出場で注目度が高くなかったビスケットブラザーズがここまでの活躍を見せられたことが、タッグ相撲の競技性がもたらすテレビ番組としての見ごたえである。

 同時にこの競技は、テレビ番組だから成り立つともいえる。タッグ相撲とはいえぶつかり合いは1対1なので、二つの戦いが土俵上に同時多発する。そのどちらかの勝敗に注目しているうちにもう一方ではすでに決着がついていて、対局全体を見られないことがしばしば。しかしそこは収録された映像なので、番組では対戦を”リプレイ”する。一回めに見た立合いの行く末をしる視聴者は、見ていなかったほうの身体たちに注目することでやっと、情報量の多い対局の全貌を把握することができる。

 「はっけよい、のこった!」の先に何が起こるかはわからない。それが相撲の面白さである。2対2になることでさらに複雑になるその先の運命を、「再生」=Replayすることで私たちはまなざすことができる。さまざまな視点からなんども決着の瞬間を見て、その勝負を立体的に観戦できるのは、テクノロジーがもたらした人間の目の進化である。


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 薄く流れるBGMが止み客席を照らす照明が落ちる瞬間、声なき「はっけよい、のこった」とともに予期せぬ運命がシアターイーストにも繰り広げられる。舞台上には、四本の手足と頭が生えている”もの”たちが横たわっている。Daft Punkの”One More time”が鳴り出すとそれぞれが手足を動かし起き上がったり踊り出したりしていき、それらの”いのち”が鼓動しだす。音楽は鳴り続け止む様子はなく、言葉を交わすコミュニケーションは生まれない。ここまでステージを見ていて、いわゆるストーリーが軸になるこれまで見てきた演劇とは一味違った時間が始まることを察する。それぞれの生命が好き勝手にとりとめもなく動き、同時にタッグ相撲より多くのできごとが発生する。目についた動きの顛末をしばらく見守ってみるけども、その周りを縦横無断に動き回る他のいのちに目を奪われていき視線が定まらない。台本に書かれたことが一行ずつ起こっていく演劇においては、そのセリフなりト書きなりが実演されているところに注目すればいいが、それぞれのいのちが言語化できない生命活動を行っている場合、どこを見ていいかわからない。セリフを演じている役者の芝居だけでなくそれを受ける他の演者にも視線を向けたくなるのは演劇そもそもの性質だけれども、『再生』はそれを増幅させる。

 いつのまにかまた開演時と同じ状態に戻り、照明が落ちたかと思うと、また”One More time”が流れ始める。一度命を止めた生命たちはまた動き出し"Reborn"する。まさかとは思ったが音楽でなく芝居も"Replay"される。違う時間に起こっていることだから同じ出来事ではないが、それぞれの生命体は明らかに少し前に同じ曲が流れていたときしていた動きを再現しようとしている。よし、私が正面で続いていたダンスにくぎづけになっていたあいだ反対側の舞台ではなにが起きていたのか確認できる。緑のスカートのいのちの頭に乗っていたリンゴがいつそいつの頭の上に戻っていたのか、下手に移動させられたソファはいつ上手奥に帰っていったか、一度めに見ていなかったけれども起こると予測できる出来事を期待する。そのように一番早い”再演”を目撃する。

 ただまったく同じことは起こりえない。水分補給用の水はどんどん減っていき、その空き容器も袋の中にたまっていく。横っ腹の出た赤いいのちは、空中を動く紙吹雪に対応するがそれはもちろん一度めを再現することができない。「初演」であたかも思うままに動いているかのようだったいのちがあのときの動きを繰り返そうと努力すると浮き彫りになるのが、意志をもった生命体とただ為すがままに積み重なっていく無機物たちとの対比である。Replayすることは生命がもった特殊能力であることがわかる。いま流れている音楽も同じリズムで同じリフをループすることができる人間によってされた営為である。

 三回目ともなると、汗や荒ぶる呼吸のかたちで役者の身体に疲労が表れていく。それでも決められた激しい動きをつづけていくさまにはいのちの躍動を見てとれずにはいられない。ループされる音楽にだんだんトランス状態に陥りどこまでもつづいてほしいと思っていた祭も、これが本当にずっとつづけば舞台上に再生不可能な変化(=死)が訪れかねないことが予感される。やがて照明は灯り、役者たちは一度舞台をあとにして戻って来る。満足に対する感謝と尊敬の念を精いっぱいの拍手で送り、私は客席を後にする。

 物販で売っているステッカーには「再生」に"Re-birth"と訳をつけていた。そうか、役者の意志は確かに”再現”することに向いているけれども、そこで観客が目にするのは、新しく生まれていく(”Rebirth”)瞬間のひとつひとつなのだと、ここで気づく。「再演」によって、もとあったいのちがもどってくる(=Reborn)のではない、あくまで新しいものが誕生していくのを私たちは目撃していたのだ。

 流れていた曲をサブスクで”再生”しながら帰りたかったけれども、曲名がわからないものがあったのであきらめた。あのとき生まれた瞬間はシアターイーストに置いていこう。そうしよう。

 

 どちらの「祭」においても、目の前で同時多発するいのちの躍動を言語化できずにいるうちにどんどんいろんなことが起こる。そういった情報量の多さがもたらすカオスに圧倒される。舞台または土俵のあちこちでおこるそれらの全貌を2つの目ではとうてい受け止めきれない。そこでそれぞれの"再生"によってその全体に視線を拡げようと試みる。映像というテクノロジーによって戦士たちの肉体の動きを多角的・立体的にまなざし、ローテクな演劇で生の身体が生み出す刹那を体験する、汗臭い一週間だった。

小津安二郎展にも、日曜22時半の4チャンにも本人は生きていない。『だが、情熱はある』。

※noteで書いていた記事を移行したものです。

 

2023年5月22日から5月28日にみたもの

 

 「だが、情熱はある」を見始めたのは、毎週聴いているオードリーのラジオでも話題に上がるだろうから、ついていくためにチェックしておこうくらいの消極的な理由だった。だが1話をみて、前クールの「ブラッシュアップライフ」の痴漢冤罪救出回と似た余韻を感じてから、これはオードリーファンとしてではなく、ドラマファンとして毎週楽しみにしていくことが決まった。冒頭で毎回「友情物語ではないしサクセスストーリーでもない、そしてほとんどの人にとって全く参考にはならない」とおことわりが入るが、そっくりそのまま何の参考にもせず楽しんでいる。同じように断っておくと、私は山里亮太のほうのライフストーリーを普通にテレビを見ている人と同じくらいしか知らないので、それぞれのエピソードを新鮮に「そんなことがあったのか」と新しく体験している。一方、オードリーのラジオは5年前から毎週聴いていて若林のエッセイも持っているから、あの話がどう映像にされるのかという目線が入っている。私が若林に興味をもったのは、世の中や周りの人間に対する、0でも100でもないなんとも言葉にならない距離感にどうも惹きつけられるからだ。「春日が一番面白い」と春日ファンを公言しながら言われたことしかしないのを何とかしろと迫ったり、自身を”ファザコン”と称しながら人間としてどうかと思う父親の一面ばかり話に出てくることとか。そういう、共感できないけれど心の深いところをくすぐる感情の数々を、このドラマは若林の語り口そのままの感触の余韻を残す映像にしている。そうして若林の(今のところ)売れない芸人としての内面の”深部”を捉えているから、私はこのドラマが好きだ。むつみ荘のインテリアを完全再現しているだとか、服装が当時のままだとかの”細部”を捉えていることはさほど重要ではない。もちろん具体的な証言をあつめていくことは不可欠だけれども、細かいことは手段であっても目的であってはいけない。むしろ深部をとらえるために、制作者と俳優がエピソードを解釈して映像として誇張ともいえる翻訳をすることで、ここまで何度か訪れている「誰かに面白いと思ってもらえた瞬間」が、いっそう心の深いところに余韻を残すのだ。

 ある人間に興味がある人に向けて、その生をどれだけ立ち上がらせるかに挑む試みとして、伝記を書いたり映像にしたりするほかに、その人の痕跡をそのまま展示する方法もある。神奈川近代文学館で開かれていた「小津安二郎展」では、撮影に使われた小道具や撮影風景のオフショットに加えて学生時代の課題だったりノートだったりが展示されていて、小津の生きた足跡をたどっていく内容になっていた。

 小津が何を考えて映画を撮っていたか、そのこだわりの細部はカット割りやメモ書きの記された監督台本に詰まっている。そして戦争に出征した際の手記や映画監督ではない一人の人間としての小津安二郎の深部が否応なく表されていた。若林のエッセイと同じようになぜか心の奥底をくすぐる、遺作『秋日和』における加東大介が軍艦マーチを踊るシーンが、小津がみた戦争を知りそのシーンの絵コンテに残された生の筆跡を目の当たりにするだけで、より近く大きいものになった感覚がある。

 思えば、当時は黒澤・溝口に比べて”地味”だと評されて国際的にも評価が遅れた小津は、春日やしずちゃんの人気に隠れて”じゃない方芸人”として扱われてきた若林と山里に重ねることができるかもしれない。そして小津の作品のストーリーが、誰かが勝ったとか恋が成就したとかでわかりやすく結ばれことが少ないことと、『だが、情熱はある』で、高校時代の好きな人に自分のエピソードトークが聞こえるようにわざと大きな声で聴かせた結果「山里くんって面白いね」と言われた経験とか、久しぶりに会った父親に自身の出演したラジオの感想を求めると面白かったと認めてもらえるもそれがあっさりすぎて煮え切らない若林、のように個人的で些細な変化を捉えて各話のおいしいところにもってきていることは、見ている私の心のを同じやり方で動かしている気もする。

 小津とは違い若林・山里の人生はまだつづいていて、ドラマの描く時世が現在に近づくにつれて本人たちの反応がリアルタイムで観測出来て、それに記憶が呼び起こされてドラマには描かれていないエピソードが語られていくのが楽しい。けれど若林と山里だけでなく、あのとき見た文字や写真の記憶として私のなかで生き続ける小津の情熱も確かにそこにある。

 

ここはBEYOOOOONDSが武道館で歌う“やさしい世界”か、囲碁将棋が「THE SECOND」で勝ち進む“正しい”世界か

※noteで書いていた記事を移行したものです。

 

2023年5月15日から5月21日にみたもの

 

 ライブは、それを演っている人と見ている人で成り立っている。ライブに行く人にとっては当たり前で、わざわざ時間と労力を割いて足を運ぶ理由であったそのことをこの3年ですっかり忘れていた。

 BEYOOOOONDSの武道館公演『NEO BEYO at BUDOOOOOKAN』の一曲目からオタクのコールを浴びたとき、アイドルのライブとはこういうものだったと、一気に身体の奥底まで染み渡ってきた。いや、本当は開演直前に下の方で「高瀬くるみさーん!」と叫ぶのを聞いたのがきっかけだった。パフォーマンスする者が見ているものに一方的に語りかける行儀の良いものではなく、かよわい乙女たちには手懐けられるはずない滾った獣たちが暴れまわるのに圧倒されまいとそのか細さからは想像できないパワーを発揮する。そのカオスさこそ、アイドルのライブだった。自粛期間中にハマったから、それをハロプロで体験するのははじめてだったが、ここでもそういう光景があることに感動した。

 一年前の武道館公演で小林萌花がBEYOOOOONDSのことを「やさしい世界」と表した。生きているだけで素晴らしいとか、今が最高などのメッセージを歌にのせつづけ、メンバーどうしのいいところを見つけ伸ばしあっていく彼女たちにぴったりな言葉だ。だけどその世界があるのは、BEYOOOOONDSと彼女たちのことが好きなファンでできた小さく閉じた空間だけだ。現状肯定をわざわざ謳うのは、それが自然にできない世の中があるからだ。”ニッポン”の”未来”になんども言及するのは、今のこの国を憂いているからではないだろうか。

(去年の武道館公演を見た後に書いたブログ)
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note.com


 そこから一年経ち、相変わらずパフォーマンス力に裏打ちされたエンターテイメント性と遊び心に満ちたステージを見せるなか、終盤に変奏が訪れる。残すところあと数曲であることがMCで告げられた後、ステージの背景に星空が浮かび上がる。それは先日発売された曲と今ツアー初披露の新曲で歌われる”夜空”でありその向こうに広がる”宇宙”だった。屋内では見られないはずの景色。”NEO” BEYOOOOONDSは「やさしい世界」を武道館の外に開いたのだ。世界より広い宇宙へ。眼鏡の男の子と私のミクロな関係から始まったビッグバンは、ニッポン、世界と広がっていき、銀河まで飛び出した。一岡伶奈が歌う「夢さえ描けない夜空には」の落ちサビ「もしもそう思えない世界ならいま」はもう仮定ではなく、武道館の外に広がる”そう思えない”世界に立ち向かっていくために背中を押しているようにも聞こえた。この先に待つ未来、コンサートが終わっても、アンコール後に歌われたように”Beyond the world"して。目の前のファンを楽しませるにとどまらず、それを取り巻く世の中を「やさしい世界」にしていく。そういうグループになっていくのだろう。

 週末にテレビでみた「THE SECOND~漫才トーナメント~ グランプリファイナル」には、週の初めにみたガールズグループとは真逆の、芸歴を重ねた”おじさん”たちしか出ていなかった。だけど舞台の形ひとつだけをとれば、演芸を披露する側とそれを見る側が一本の直線で仕切られないような構図をともにしていた。そして観客がこれから先のラウンドに進む芸人を決める運命を握り、審査コメントも観客が担う、これまでではみられないほど観客と芸人がインタラクティブな関係となり進んでいくお笑い賞レースだ。

 スピードワゴンテンダラーの技術に裏打ちされたコント漫才ギャロップ囲碁将棋の芸人ならではの視点とワードセンスで会話を展開するしゃべくり漫才など本流を行く漫才から、お笑いファンにしか名が知れていない芸人の名前を次々と出していく三四郎のネタや5人のコンビネーションでの掛け合いを見せる超新塾など、同じく”一番面白い漫才師”を決めるM-1グランプリでは決して見られないようなスタイルまで多種多様な漫才が披露されていく。

 放送上ではファーストラウンドとなる準々決勝で囲碁将棋に負けた超新塾がはなむけに贈った言葉、「囲碁将棋が勝ち進むことは『正しい』」にお笑いファンたちはうなずいたであろう。M-1グランプリの出場資格を持っていたころからファンと漫才師の間では評価されてきた彼らだったが、四年前のラストイヤーまでついに決勝の舞台に立つことはなかった。”ネタ選びを間違える”などと言われることがあったが、その言い回しに今なら違和感を覚える。囲碁将棋が一番面白いと思ってそれぞれのネタを披露したことが”間違っている”わけがない。ありえるとしたらM-1が描く漫才の美学にそぐわなかっただけである。それが今大会では、ネタ時間と審査方法の変更により彼らと彼らを評価し続けた人にとって「正しい」と思える結果となった。M-1の基準が間違っているわけではない。THE SECONDの基準M-1で披露される漫才のほうが面白いと感じる人ももちろんいるだろう。だがM-1が作ってきた価値が相対化されたことはとても意義が大きい。

 結局は囲碁将棋は西で彼らと同じように評価を受けながら日の目を見ないできた(2018年のM-1グランプリで決勝に進んだが、思うように自分たちの漫才ができずふるわなかった)ギャロップに僅差で負け、ギャロップがそのまま初代王者となった。自らのコンプレックスを題材にしたものから街でみた景色を題材にしたものまで扱いさまざまな種類の洗練された話術を披露したギャロップが最強と評価されることは終わってみるとこれはこれで「正しい」結果だったように思える。決勝の対戦相手・マシンガンズが披露した3本の漫才は、ボケとツッコみの掛け合いというより二人が観客に語り掛けるスタイルだった。特に決勝の6分間はその場で思いついたことを次々に口にしていくことで漫才ができていった。この日のこの形のステージではこれが一番だと評価されても納得するほど漫才でしか味わえないワクワクが詰まっている時間だった。しかし結局漫才を向けられていた人たちはギャロップの洗練された漫才がより良いと決めた。それがあの日あの場所あそこにいた人が作った正しい世界のことで、それはその外側にいる私たちにとってはどうしようもないことである。

 お笑いをはじめすべての演芸、芸術に正解などない。ただ、”一番面白い漫才師”を決めるとなればどっしり構えた権威に最も見初められたものが評価される目の前の客を幸せにする仕事をする人の価値は、それを見に足を運ぶ人が決めるのがまっとうなことだろう。

 BEYOOOOONDSの「やさしさ」がアイドルとファンの間の閉じた世界に守られていたように、THE SECONDの「正しさ」もお笑いファンの観覧客によって守られていた。この宇宙がやさしくて、正しい必要はない。やさしさにふれたくなったらBEYOOOOONDSのライブに行けばいいし、自分が正しいと思うお笑いが見たければライブに行けばいい。COVID-19対策のしかたが変わって、人と人がより濃く関係できるようになったことで、ステージの上と下の関係もより強くなったように感じる一週間だった。

街裏ぴんくが噺しスカートが唄うのを、『アダマン号に乗っている』人たちも耳をすませ

※noteで書いていたころの記事を移行したものです。

2023年5月8日から2023年5月14日にみたもの

 

 お笑い芸人が小説の帯を書いていたり、音楽家が主題歌を提供してもいない映画のチラシにコメントを寄せていたりすると一気に興味が湧く。その場合の芸人や音楽家は、その方法で表現するプロフェッショナルではない点でなんでもない私と同じ「素人」とみなせる。だからそうやって違う世界の人の心を動かすことができる作品ならば、培われた審美眼がない自分にも刺さるのではないかと期待する。

 そういうときめく交歓の時間を目の当たりにできるのならば、スカート×街裏ぴんくツーマンライブ「VALETUDO QUATRO」はスルーできないライブである。さらば青春の光×Creepy Nuts、ニューヨーク×クリープハイプなどお笑い芸人とミュージシャンのツーマンライブは最近よくやっているけれども、これは様子が違う。なにやらずっと打ち合わせをして何か企んでいるし、ディレクターが「【前半】スカート 【後半】街裏ぴんく みたいな構成ではありません。」とわざわざ教えてくれている。こんなワクワクする試みをするのがどっちもたまたま好きなアーティストでよかった。

 幕が開くと喫茶店のようなセット。そこに二人が座りいま目の前で行われているライブの打ち合わせのテイで「こんなことやりたいですね~」と提案しあい、暗転を挟んで実際にそれが目の前で演じられていく。互いの好きな曲や漫談をリクエストしてそれを実際にやったり、共通のテーマをもった互いの持ちネタを披露しあったり、街裏の噺に登場するとある”音”を具現化してスカートの曲の伴奏に用いたりと、見事なコラボレーションだった。互いの世界にひと目で見抜けるような親和性はなかったけれども、スカートのメロディーラインにある”飛躍”(たとえば「ストーリー」の「♪おちつかないわ」のところ)に感じる熱量は街裏ぴんくの漫談の突飛な展開で感じるものに近いかもしれないなど、ライブが進むにつれて二つの丸い巨体が漸近していきひとつの”∞”になっていくようだった。特にここに来てよかったと感じたのがクライマックス。スカートの「架空の帰り道」をもとに新しくできた(あくまで体験をもとにしているので「つくった」ではなく)漫談を披露し、そのあと澤部がその曲を歌うコーナー。街裏が語る出来事は澤部の歌声が醸し出す青春の透明感を帯びていて、ライブのエンディングテーマとして流れる曲

映画の中にひとり迷い込んで 車を走らせる……ことがあるとして
想像とは違って一本道や険しい道でさえなかったけれど

*1

 

 は”街裏ぴんくのテーマソング”に聞こえた。

 そうして目の前で実現していた、音楽と漫談を通した二人の”対話”に欠かせなかったのが、見せている側と見ている側を分けない二人の演者の配置だ。弾き語りなり漫談なりをしている間も、もう一方が常にステージの奥にいてリズムに乗ったり笑ったりしている。こうやってパフォーマンスをしている人とそれを見ている人が同じ画角にいてそこに自分が向かい合っている構図はなかなか見ない。その聞いている姿をひとつの見世物としているような。「聴いているところ」に注目することはあまりない。テレビのお笑い番組でネタが演じられる間にゲストや審査員の笑った顔が挟まれることはあるが、笑っていないところまですべてさらけ出されているのは珍しい。澤部は笑うことで忙しそうであったけれども、街裏はときどき身の振り方に困っているようにも見えた。普段その才能に耳を傾けられる人が耳を傾ける姿が新鮮で、帯やチラシのコメントを見たときよりさらにくっきりしたときめきがあった。

 そのすぐ後だったからかもしれないけれども、『アダマン号に乗って』のなかでたびたび行われる集会のシーンにおいても、話している人と聞いている人が同じフレームにいるとき、聞いている人のことばかり見てしまった。自らの芸術観を雄弁に語るおしゃれなおじいちゃんが、つづくシーンで映される集会で、新しく赴任してきた精神科医の自己紹介に耳を傾けている。ほかの乗船者についても、語っているところが映されればどこかその先で誰かの声に耳を傾けるのを目にすることになる。

 一度乗ったら当分はそこに居るのだから、集会となれば画面が一度みたことがある人々になるのは当たり前のことである。ただの普通じゃない人のドキュメンタリーが、場所性をもつことでそれぞれの人のさまざまな面を捉えられている。個人主義の国のなかで、発達や精神のかたちが”普通”と違う個性豊かな人が集まるときいて想像するような”事件”は、本当は起こっているかもしれないけれど何一つ映されず、みんなの日常のしぐさをまなざしていく。どういうところが普通じゃなくて病気をみなされているのかとか、この船に乗るようになったきっかけとかを尋ねることがないのは、誰も特殊な人と思っていないからであり、そもそも特殊な人しかいないからであり、それは本当は船の外でだってである。

 何かを話しているときは、何を持っているか、何をしてきたか、どういうことを思っているか...…、わざわざそれを人に話す以上”あなたではなさ”を伝えなくてはいけないから、ときに誇張してしまったり意地を張ってしまったりする。何かを聞いているときこそ何も背負わないでいられる時間なのではないか。私が今週みた人たちは、ステージの上に立っていたりカメラを向けられていたりしたから、演じることをやめられていないかもしれない。それでも絶対に耳を傾けている相手以外のことを忘れている時間はきっとあり、そのありのままの姿を忘れずに見ていた私も間違いなくいた。

 街裏ぴんくもスカートも今回の会場だった渋谷のCLUB QUATTROより大きい会場をひとりで埋めることのできる人であるはずだ。なのにチケットが売り切れていないのはなんでだろうとずっと不思議だ。どっちも好きじゃないと共演は楽しめないとでも思っているのだろうか。もし漫談またはスカートの弾き語りに全く興味がなくたって、好きなアーティストの”聴き方”を見ていればいいのである。そんな体験ができるほうがむしろ価値がある。『アダマン号に乗って』はただ、色とりどりの人が混ざり合って暮らすの空間の心地よさを体験するだけで十分な映画だけれども、なにかメッセージを伝えるとしたら、耳を傾けることとか対話することを欠いた人々への注意喚起みたいなものも感じた。

 そうやって映画を観ていた私のことも、クアトロのホールで片手にハイボールを持ちながらツーマンライブを見つめていた私のことも誰ひとり気に留めることはなかっただろう。でもそれはなんのエンタメにもならないし、そうして何も背負っていない自分が身軽で良いのかもしれないと思った。

*1:架空の帰り道 / スカート

『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』し、誰ともしゃべろうとしない『晩菊』もやさしい

 

※noteで書いていたころの記事を移行したものです。

2023年5月1日から2023年5月7日にみたもの

 

 『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』の予告編を見たときから、これは私が見るべき映画だと思っていた。けど自分はぬいぐるみと話したことは無いし、どうやら登場人物に与えられていて作品のひとつの大事な要素となっているアセクシャルに関して、興味はあれど共感できるわけでもない。今おもえば新谷ゆづみの演技が見られるということだけに惹かれていた気もする。

 見終わったあとでも、私が見るべき映画だったことは不思議と揺らがなかった。共感できる人物が見つかったわけでもないけれど、その彼らとの違いこそ確かにあることで守らなければいけないことだと教えてくれた。

 "ぬいぐるみ"、"しゃべる"、"やさしい"。タイトルに出ている言葉に限らず、出てくるどの言葉も繊細に扱われていた。ふわふわしていて言葉を吸い込んでくれそうだからぬいぐるみでなくてはならず、自分で抱え込めないからしゃべらなくてはいけない。「やさしい」と思ってしていることが本当は冷たいことかもしれないけれどそれも含めてやさしさなんだって。どの言葉を使うときもそうではない言葉がよぎっているのが、書かれたものからもそれが音になっていく様子からも伝わってきた。「話そう」とたったそのひとつの主張を伝えるために、長いことそこまでたどりつくためらいと言い訳をすべて映す必要があったから、この映画は映画じゃなきゃいけなかったとわかる。

 どの登場人物にも自分は当てはまらなかったけれども、くらしのなかにいる他者やおのれが使う言葉に対しての手ざわりに対しては共感するところがあった。他人と接することや言葉を扱うことは気を遣うけれども、自分のなかに生まれた思いや言葉をひとりで抱え込むのも耐え難い。そんな人たちにとって、ぬいぐるみみたいな半分のいのちが世界を少しだけ開いていく。そしてその開いた小さい世界にいる仲間にであっていくようすが描かれたリトルでキュートな映画だった。

 今週はもう一本、他人との距離に敏感な人を描いた映画を観た。『晩菊』のおきんさんは、人にお金を貸してその利子で暮らしている。取引相手はいても仕事仲間はいない。いろんな人を訪ねては話すけれども温度のない会話ばかり。取り繕った笑顔で冷たさすら感じさせない話しぶりだ。女中と一緒に暮らしているけれどもその人は耳が聞こえず、交流といった交流もない。身の回りの世話をしてくれるだけのこの人ともきっとお金だけでつながっている。”同居人”として『ぬいしゃべ』の七森くんは話すことだけをする相手を選んでいるけれどもおきんさんはむしろ話すことだけをしない人を選んでいる。心だけを預けるのに対して体だけを預けているともとれる。

 おきんさんがそのように他人と距離を置くのは、人間に対する諦めがあるからだ。若かりし頃は芸者として誰かに求められることで生きてきた。しかし、誰かの深いところに入り込んでしまったせいで、無理心中を仕掛けられ死にかけた。それが大きなきっかけかはわからないが他人と深くかかわってもいいことなどないと悟ってしまった。おきんさんとその外側の世界には何重にも重なった扉がある。家の戸をパシャリパシャリと閉めたり、貸した金を回収しに家々を回っていく速さには『ぬいしゃべ』と真逆のスピード感がある。

 もう誰ともかかわらずに死んでいく決意をしてるかのように思えたが、そこまであきらめているのではないらしかった。終盤彼女を訪ねてくる田部さんは”推し”みたいな人だろうか。写真まで大事にしまっちゃって。芸者をしていたころを想像させる手さばきでお化粧をし、その様子を覗いてこようとする田部を、これまで見せなかったような女らしい仕草でたしなめる。これまで金を回収するために非人間的なふるまいをしてきたおきんが、目の前の男との関係のなかで自分を相対化している。そんな久しぶりのときめきもむなしく、田部が久しぶりに連絡をよこしたのは金を工面してくれるよう頼むためだとわかる。ひとりひとり諦めていったなか、最後に残しておいた憧れが、音もたたないあっけなさで崩れていく。

 それを生業としているにもかかわらず、田部への借金をきっぱり断るきん。そう思うと金を貸すことでぬくもりはないながらも関係をつづけている昔の芸者仲間たちは、まだ諦めの対象ではなかったのかもしれない。

 彼女はやけぼっくいに点きかけた火を大事に持っておいたはずの田部の写真に移し、彼に抱いていた幻想を燃やし尽くす。酔っぱらってくだをまく田部の口ぶりの情けなさがさらに薪をくべる。田部はおきんに視線を向け続けるけれども、彼女の視線はその関係を閉じることなく外に向いており、彼女だけが降り出した雨に気づく。二人きりの空間に耐えられなくなったおきんは窓を開け空をみつめる。

 『ぬいしゃべ』にも同じように視線を外に向けるシーンがあった。七森くんが白城の部屋を訪れたとき、自然と流れる恋人らしい空気と二人の関係の不和が見ているこちらまでにじみ出てきたころ、彼はベランダに出て街を眺める。まるで違う速さと毅然さでふるまってきた二人が同じ動きをみせた。

 「話そう」と決めた七森君とは違い、おきんさんはまた金になる物件を見にいき、駅で無くした切符を一人で見つけ出す。出している答えは違うけれども、他人との距離感とか他人のなかの自分の存在の置き方を気にする当たり前じゃなさにおいて通じるものがある。やさしいことは無関心と表裏一体ではないかとぬいしゃべのなかで疑問が投げかけられるが、逆におきんのように無関心であることもやさしさの一つかもしれない。

 いろんな花が咲いては枯れて季節が巡っていくように、人の心も移ろって仕方ない。その移ろいは田部がおきんにしたように誰かの期待を裏切ることもあれば、白城が七森くんにしたように前を向かせることもある。ぬいぐるみとしゃべる人たちが過ごす春のさきに、晩菊が咲くような晩夏が待っているのだとしたらちょっと寂しいような気もする。私は、夏が好き。

 

 

拍手を浴びる『BLUE GIANT』を見ながら考えた『浦安魚市場のこと』

※noteで書いていたの記事を移行したものです。

2023年4月24日から2023年4月30日

 

 ”拍手歓迎上映”に身構えていたけど、評判通り『BLUE GIANT』が上映されている劇場のなかで手を叩く人はなかった。空気を読みがちな日本人が、”映画館では静かにする”という身体に染みついた常識を壊すなんて考えにくいから当たり前だとは思う。だが、開催にいたる理由として挙げられていた「『拍手をしたくなった!』との声をいただ」くのもすごくわかる。迫力ある音響で浴びるJASSのグルーブには自然と体をのせたくなり、それぞれの演奏にいたるまでのドラマを踏まえると身体だけでなく心も震えた。アニメーションにしかできない自由な画面の使い方で、自分が映画をみていることを忘れるほど身体まるごとで音楽を体感した。しかし、拍手をしたくなる心の動きと実際にそれを行動に動かす体の動きとの間には大きな隔たりがある。

 拍手は”する”ものではなく”送る”ものだ。相手がいないときにするものではない。拍手を送ることはそういう関係を結ぶことで、相手と自分の相互作用だ。それが起こりうる場所のなかで二つ以上の身体があってやっと拍手の音は生まれてくることができるのだ。たとえ映画を観る人が拍手を送っても、登場人物にせよ作り手にせよそれを聞いてほしい人に届けることはできない。私たちがスクリーンの前で手を叩くにいたらなかったのはそういうわけなのではないか。

 スクリーンのこちら側では聞こえてこなかった拍手だが、スクリーンのなかではJASSの演奏を聴いた人たちが彼らに送るそれであふれていた。目の前で素晴らしいパフォーマンスが行われていれば賞賛を身体で表す”常識”がある人たちにとって当たり前のことであり、それを周りの人どうしで共有している空間にいるから生まれる空気によるものだ。スクリーンのこちら側で聴いているわたしたちも立体的な音響で没入してはいたが、抽象的な映像で脳内に音と映像が一緒に飛び込んでくる体験はいたって個人的なもので、隣の人といっしょに身体が動いてしまうに至ることは決してないだろう。

 『BLUE GIANT』が、身体に拍手を送らせるほどではない取るに足らない作品だったわけではなく、むしろ映像ならではの表現とドラマの運び方で拍手を送りたくなる心の動きをもたらすよい”映画”だった。

 拍手歓迎上映を見ながら少しよぎったのは、ちょうど前の日に見ていた映画のなかで起こっていた拍手のこと。かつての漁師町・浦安にある魚市場の日常とそれが閉鎖するまでにカメラを向けた『浦安魚市場のこと』はもちろん拍手歓迎での上映ではなかった。しかしその映画のなかには『BLUE GIANT』よろしくたくさん拍手が聞こえてきた。少し違う種類のような気がするのだが。

 作品全体を通して映し出される、魚市場の日常。市場で働いている人や近所から買い物にくる人の日常の中に魚を買って売ることが当たり前にあるようす。そしてそれがだんだんと当たり前ではなくなってくる世の中に抗う人のようす。システム化された社会においてなかなか見ることができない”人が人にものを売る”ところのあたたかさと、それを暮らしのなかで繰り返してきた人たちの軽やかな手つきとが魚に負けないほど活き活きと映像に描かれている。そういった生のくらしと人間関係をほどいていってしまうのが、市場閉場のしらせ。そこで日常を送ってきた人たちに、最後の日という非日常が訪れる。街に根ざした文化が引っこ抜かれていくときに生まれる大きなエネルギーが音をたてる。

 閉まっていくシャッターの後ろで頭を下げ続ける市場の人たちと見送る人々、作品のなかで中心的にカメラを向けられてきた森田釣竿さんと挨拶を聞くお客さん、その間に拍手はあった。どちらも、送ろうと決めていたわけではないが”せずにいられなかった”ような拍手であった。話し終わったり頭を下げ終わったりしたあとに生まれた隙間を周りの人が埋めようと音が生まれる。やはりここにあったのも拍手を送る人と向けられる人の関係。『BLUE GIANT』のそれも『浦安魚市場のこと』のそれも、一期一会のもの。JASSとは映画の外で会うことができないけれど、森田さんは市場の外に開いた新しいお店に行けば会える。私もそこに行って、彼に向けて拍手を送りたい。

 拍手に包まれるとき、それが自分に向けられたものでなかったとしても気持ちがいい。人が集まることが制限されてきたこの数年間私たちが遠ざかってきたその快感が『BLUE GIANT』によって呼び戻された。歓声がどよめく音楽フェスの映像を目にすることも多くなり、失っていたものが少しずつ戻ってくる流れを感じる。一方、浦安魚市場がなくなっていくように「活きた」人に会える場所がどんどん少なくなっていく大きな流れもある。世界はこれからどっちへ向かうのか。