あちらこちらで ~勝手に2本立て鑑賞日記~

映画館で、テレビで、美術館で……ところかまわずその週見たものたちをひとつの感想にこじつける

「タッグ相撲最強コンビ決定戦」でビスブラ原田は「一緒に死ぬ」、そして『再生』する

 


2023年5月29日から6月4日までにみたもの

 


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 柔道や剣道、空手といった日本の他の武道が、両者の身体を俯瞰してその技が全体として”心・技・体”において相手を制しているかを判断し勝敗を決めるのに比べて、相撲の勝敗は力士の足の裏以外に土がつくかまたは足が土俵の外にでるかどうかの一点に集中し、その判定も人間の意志の存ぜぬところで決まる。どれだけ気圧されていようと、失格状態に相手を追い込めば勝ちになる柔軟さによって、体力差を逆転する結末がしばしば生まれるのが相撲の面白さだ。「水曜日のダウンタウン」の企画「タッグ相撲最強コンビ決定戦」はそういった相撲の柔軟さと2対2の構図が生む戦略の複雑さから、各芸人の体力と格闘技経験だけでは測れない意外な結果をしばしば生んだ。

 出場者の内で圧倒的な重量を誇る大鶴肥満も、相方檜原が早々に土俵外に突き落とされてゆんぼだんぷ二人の巨体を前にすればあっけなく押し出されてしまう。合計体重で大きく劣るトム・ブラウンは柔道で身に着けた技術によって、安田大サーカスのクロちゃんとHIROに対して戦略云々差し置いて土をつけることができる。なかでもこの大会ならではの勝ち方によって快進撃をみせたのがビスケットブラザーズだ。パワーで劣る原田が自分を押し出す相手を土俵外に引きずり下ろし「一緒に死ぬ」ことで自分の負けを数的不利に結びつけず、パワーに申し分ないきんと残った相手の一騎打ちに持ち込む戦略だ。1対1の相撲ならば、土俵の外に少しでも足がついた瞬間に戦士としての”死”が訪れるが、コンビの両方が負けるまで終わらないタッグ相撲では、負けた力士が闘うことが許される。決勝ではきんがみちおを倒しきることができず、トム・ブラウンが優勝することとなったが、初出場で注目度が高くなかったビスケットブラザーズがここまでの活躍を見せられたことが、タッグ相撲の競技性がもたらすテレビ番組としての見ごたえである。

 同時にこの競技は、テレビ番組だから成り立つともいえる。タッグ相撲とはいえぶつかり合いは1対1なので、二つの戦いが土俵上に同時多発する。そのどちらかの勝敗に注目しているうちにもう一方ではすでに決着がついていて、対局全体を見られないことがしばしば。しかしそこは収録された映像なので、番組では対戦を”リプレイ”する。一回めに見た立合いの行く末をしる視聴者は、見ていなかったほうの身体たちに注目することでやっと、情報量の多い対局の全貌を把握することができる。

 「はっけよい、のこった!」の先に何が起こるかはわからない。それが相撲の面白さである。2対2になることでさらに複雑になるその先の運命を、「再生」=Replayすることで私たちはまなざすことができる。さまざまな視点からなんども決着の瞬間を見て、その勝負を立体的に観戦できるのは、テクノロジーがもたらした人間の目の進化である。


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 薄く流れるBGMが止み客席を照らす照明が落ちる瞬間、声なき「はっけよい、のこった」とともに予期せぬ運命がシアターイーストにも繰り広げられる。舞台上には、四本の手足と頭が生えている”もの”たちが横たわっている。Daft Punkの”One More time”が鳴り出すとそれぞれが手足を動かし起き上がったり踊り出したりしていき、それらの”いのち”が鼓動しだす。音楽は鳴り続け止む様子はなく、言葉を交わすコミュニケーションは生まれない。ここまでステージを見ていて、いわゆるストーリーが軸になるこれまで見てきた演劇とは一味違った時間が始まることを察する。それぞれの生命が好き勝手にとりとめもなく動き、同時にタッグ相撲より多くのできごとが発生する。目についた動きの顛末をしばらく見守ってみるけども、その周りを縦横無断に動き回る他のいのちに目を奪われていき視線が定まらない。台本に書かれたことが一行ずつ起こっていく演劇においては、そのセリフなりト書きなりが実演されているところに注目すればいいが、それぞれのいのちが言語化できない生命活動を行っている場合、どこを見ていいかわからない。セリフを演じている役者の芝居だけでなくそれを受ける他の演者にも視線を向けたくなるのは演劇そもそもの性質だけれども、『再生』はそれを増幅させる。

 いつのまにかまた開演時と同じ状態に戻り、照明が落ちたかと思うと、また”One More time”が流れ始める。一度命を止めた生命たちはまた動き出し"Reborn"する。まさかとは思ったが音楽でなく芝居も"Replay"される。違う時間に起こっていることだから同じ出来事ではないが、それぞれの生命体は明らかに少し前に同じ曲が流れていたときしていた動きを再現しようとしている。よし、私が正面で続いていたダンスにくぎづけになっていたあいだ反対側の舞台ではなにが起きていたのか確認できる。緑のスカートのいのちの頭に乗っていたリンゴがいつそいつの頭の上に戻っていたのか、下手に移動させられたソファはいつ上手奥に帰っていったか、一度めに見ていなかったけれども起こると予測できる出来事を期待する。そのように一番早い”再演”を目撃する。

 ただまったく同じことは起こりえない。水分補給用の水はどんどん減っていき、その空き容器も袋の中にたまっていく。横っ腹の出た赤いいのちは、空中を動く紙吹雪に対応するがそれはもちろん一度めを再現することができない。「初演」であたかも思うままに動いているかのようだったいのちがあのときの動きを繰り返そうと努力すると浮き彫りになるのが、意志をもった生命体とただ為すがままに積み重なっていく無機物たちとの対比である。Replayすることは生命がもった特殊能力であることがわかる。いま流れている音楽も同じリズムで同じリフをループすることができる人間によってされた営為である。

 三回目ともなると、汗や荒ぶる呼吸のかたちで役者の身体に疲労が表れていく。それでも決められた激しい動きをつづけていくさまにはいのちの躍動を見てとれずにはいられない。ループされる音楽にだんだんトランス状態に陥りどこまでもつづいてほしいと思っていた祭も、これが本当にずっとつづけば舞台上に再生不可能な変化(=死)が訪れかねないことが予感される。やがて照明は灯り、役者たちは一度舞台をあとにして戻って来る。満足に対する感謝と尊敬の念を精いっぱいの拍手で送り、私は客席を後にする。

 物販で売っているステッカーには「再生」に"Re-birth"と訳をつけていた。そうか、役者の意志は確かに”再現”することに向いているけれども、そこで観客が目にするのは、新しく生まれていく(”Rebirth”)瞬間のひとつひとつなのだと、ここで気づく。「再演」によって、もとあったいのちがもどってくる(=Reborn)のではない、あくまで新しいものが誕生していくのを私たちは目撃していたのだ。

 流れていた曲をサブスクで”再生”しながら帰りたかったけれども、曲名がわからないものがあったのであきらめた。あのとき生まれた瞬間はシアターイーストに置いていこう。そうしよう。

 

 どちらの「祭」においても、目の前で同時多発するいのちの躍動を言語化できずにいるうちにどんどんいろんなことが起こる。そういった情報量の多さがもたらすカオスに圧倒される。舞台または土俵のあちこちでおこるそれらの全貌を2つの目ではとうてい受け止めきれない。そこでそれぞれの"再生"によってその全体に視線を拡げようと試みる。映像というテクノロジーによって戦士たちの肉体の動きを多角的・立体的にまなざし、ローテクな演劇で生の身体が生み出す刹那を体験する、汗臭い一週間だった。