『怪物』に触れたい。背中に『aftersun』を塗るために。
2023年6月5日から6月11日にみたもの
保利先生が湊を「殴った」責任を追及する母・早織。だが学校は殴ったのではなく、”保利先生の腕が湊くんの鼻に「接触」した”と言う。それに早織は憤りを示すが、学校側の言っていることに何の間違いもない。保利先生に傷害の意図があったがどうかなど、下手すれば本人でも確かめようがない。人間の意識の関せぬところで観測できることは、二つの物体の間に働いた作用と反作用のことだけである。その”接触”に、加害の意図があったかどうかが追及されるが、そのあと流れた実際の映像が語る分には、保利の加害する意図はみられなかった。これもこちらの主観でしかなく、”暴力”は客観的事実としては本質的にない。なにが暴力でなにが暴力にならないかは、つねに不安定な基準のうちに決まる。自分が殴りかかっても相手の急所に当たらないこともあれば、ちょっと小突いただけのつもりがあざをつくってしまうこともある。相手の見ている世界を同時に体験することができれば、人と人はもっとうまく触れ合うことができるだろうが、同じ時間を何度も行き来して互いの言い分を理解した映画の観客のように世界を見ることはできない。他人のことはわからない。傷つけやすい自分の「怪物性」に気づくとともに、傷つきやすい他人の「怪物性」も改めて思い知らされる。
私たちが抱えるそのような他者ゆえの断絶は、大人と子どものあいだでさらに絶望的になる。早織が我が子を傷つけた担任に放った人格を否定する言葉をはじめとして、この映画の中で起こる大人どうしの諍いにおいては、みんな相手を傷つける意志を自覚していたり自分を守ろうとする後ろめたさを感じていたりするように、加害性が顕在している。一方、湊が鼻を怪我した件でもそうだったように、子どもが負う傷は負った側のみに感触がある。湊の鼻血は見えるものだったけれどもそんなの氷山の一角で、外からは見えない傷でぼろぼろになっていたことがやがて明らかになる。湊に”普通の家族”をつくることを求める母も”男らしさ”を求める保利も、子どもの将来を案じて元気づける言葉として投げかけている。その二人より明らかに刺々しく映る依里の父親だって、前提と目的は早織と保利とさして変わらない。大人の力で子どもに触れたら、それを大人にするよりずっと簡単に傷を負わせることができてしまう。その勾配は体格差だけでなく心と頭の柔らかさの差のせいでも生まれる。多くを知らないから、言われたことが”正しい”ことに聞こえてしまう。大人は少し触れただけのつもりでも、子どもの体重にとってそれは歩いてた道から落とされるほど大きな力になりうる。そんな力を受けて、子どもたちの居場所は街の真ん中からどんどん離れて、だれも踏み入れていない森の奥へと追いやられてしまう。そして、ラストは私たちにも見えないさらに奥へと駆け出してしまう。正面から見てくれる存在を見つけたこと、二人の居場所を作れたことは大きな救いだけれども、力をもった”大人側”にいる私たちからすれば、なんとも寂しい終わり方である。一回見ただけではすべてつかめなかった子どもたちの世界を、時間を巻き戻していろんな角度からみて触れ方を探っているうちに、彼らの時間は前に進んで新しいところへいってしまった。
『aftersun』に横たわっていた不穏さもきっと、子どもには見えない素の心を持った父親の「怪物性」だろう。大人の世界のことはよくわからないから、父のこともよくわからなくて当然なのだが、ちょっとわかってきたふりをしたくなる年ごろのソフィーからしたら、子ども扱いして父親”らしい”振る舞いをされるのがどこか寂しいような表情が印象的だった。私を見守る顔ではなくて、私に背中を向けていたときの世界のほうを見つめる顔を見たくて、バカンスのビデオテープを見返す。父が見ていた世界のほうが、そこには映っているかもしれない。たしかに私には見えていなかった世界がそこには映っているけれども、彼のことがわかった気がしない。『怪物』では自分の見られなかった世界がどんどん見えていき、見ていた世界までもが裏返っていく体験があったけれども、『aftersun』はむしろ、同じ思い出がまた強く焼きつくばかりで、焼けた肌の下にある無垢な肌を思い出せなくなっていく。
断片的な記憶のうちにある、よくしてもらっていたこと。私の背中に日焼け止めを塗ってくれたこと。自分の背中は自分には見えなくて手も届きにくい。だからお父さんは私の後ろに回って私の身体を陽射しから守ってくれた。なんであんなにしつこく護身術を教えてきたのか、この世界で女性として30年生きてきた今ならわかる。そうやって当時の私に見えていなかった私の背後に忍び寄るものを父の目は捉えていた。一方の私がしてあげたのは、彼の顔にローション(aftersun)を塗ってあげること。彼の日焼け自体を防ぐにはもう手遅れだけど、少しでも痛くない明日を私は彼にあげられていただろうか。
『怪物』の湊と依里と同じく、カラムも最後はあっちへ”行ってしまう”。「もう一度見つめ返してくれれば」と残念に思う気持ちは、ソフィも、自分に見ていなかった子どもたちの世界が見えたあとの早織と保利も持っていただろう。息子または生徒に「わかっていなくてごめんね」言えたとして、それは日焼け止めの役割はできないけれども、それでももういちど触れてあげたいはずだ。そしてこれからは彼らの背中を守ってあげられるはずだ。
怪物どうし触れ合わないでいれば、傷つけあわずに済む。だけど自分の目では見られないところ、手の届かないところに触れてくれる存在はいてほしい。ならば、押したり叩いたりではなくて、クリームを塗るくらいの手つきで撫でてみたらよいのではないだろうか。