あちらこちらで ~勝手に2本立て鑑賞日記~

映画館で、テレビで、美術館で……ところかまわずその週見たものたちをひとつの感想にこじつける

『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』し、誰ともしゃべろうとしない『晩菊』もやさしい

 

※noteで書いていたころの記事を移行したものです。

2023年5月1日から2023年5月7日にみたもの

 

 『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』の予告編を見たときから、これは私が見るべき映画だと思っていた。けど自分はぬいぐるみと話したことは無いし、どうやら登場人物に与えられていて作品のひとつの大事な要素となっているアセクシャルに関して、興味はあれど共感できるわけでもない。今おもえば新谷ゆづみの演技が見られるということだけに惹かれていた気もする。

 見終わったあとでも、私が見るべき映画だったことは不思議と揺らがなかった。共感できる人物が見つかったわけでもないけれど、その彼らとの違いこそ確かにあることで守らなければいけないことだと教えてくれた。

 "ぬいぐるみ"、"しゃべる"、"やさしい"。タイトルに出ている言葉に限らず、出てくるどの言葉も繊細に扱われていた。ふわふわしていて言葉を吸い込んでくれそうだからぬいぐるみでなくてはならず、自分で抱え込めないからしゃべらなくてはいけない。「やさしい」と思ってしていることが本当は冷たいことかもしれないけれどそれも含めてやさしさなんだって。どの言葉を使うときもそうではない言葉がよぎっているのが、書かれたものからもそれが音になっていく様子からも伝わってきた。「話そう」とたったそのひとつの主張を伝えるために、長いことそこまでたどりつくためらいと言い訳をすべて映す必要があったから、この映画は映画じゃなきゃいけなかったとわかる。

 どの登場人物にも自分は当てはまらなかったけれども、くらしのなかにいる他者やおのれが使う言葉に対しての手ざわりに対しては共感するところがあった。他人と接することや言葉を扱うことは気を遣うけれども、自分のなかに生まれた思いや言葉をひとりで抱え込むのも耐え難い。そんな人たちにとって、ぬいぐるみみたいな半分のいのちが世界を少しだけ開いていく。そしてその開いた小さい世界にいる仲間にであっていくようすが描かれたリトルでキュートな映画だった。

 今週はもう一本、他人との距離に敏感な人を描いた映画を観た。『晩菊』のおきんさんは、人にお金を貸してその利子で暮らしている。取引相手はいても仕事仲間はいない。いろんな人を訪ねては話すけれども温度のない会話ばかり。取り繕った笑顔で冷たさすら感じさせない話しぶりだ。女中と一緒に暮らしているけれどもその人は耳が聞こえず、交流といった交流もない。身の回りの世話をしてくれるだけのこの人ともきっとお金だけでつながっている。”同居人”として『ぬいしゃべ』の七森くんは話すことだけをする相手を選んでいるけれどもおきんさんはむしろ話すことだけをしない人を選んでいる。心だけを預けるのに対して体だけを預けているともとれる。

 おきんさんがそのように他人と距離を置くのは、人間に対する諦めがあるからだ。若かりし頃は芸者として誰かに求められることで生きてきた。しかし、誰かの深いところに入り込んでしまったせいで、無理心中を仕掛けられ死にかけた。それが大きなきっかけかはわからないが他人と深くかかわってもいいことなどないと悟ってしまった。おきんさんとその外側の世界には何重にも重なった扉がある。家の戸をパシャリパシャリと閉めたり、貸した金を回収しに家々を回っていく速さには『ぬいしゃべ』と真逆のスピード感がある。

 もう誰ともかかわらずに死んでいく決意をしてるかのように思えたが、そこまであきらめているのではないらしかった。終盤彼女を訪ねてくる田部さんは”推し”みたいな人だろうか。写真まで大事にしまっちゃって。芸者をしていたころを想像させる手さばきでお化粧をし、その様子を覗いてこようとする田部を、これまで見せなかったような女らしい仕草でたしなめる。これまで金を回収するために非人間的なふるまいをしてきたおきんが、目の前の男との関係のなかで自分を相対化している。そんな久しぶりのときめきもむなしく、田部が久しぶりに連絡をよこしたのは金を工面してくれるよう頼むためだとわかる。ひとりひとり諦めていったなか、最後に残しておいた憧れが、音もたたないあっけなさで崩れていく。

 それを生業としているにもかかわらず、田部への借金をきっぱり断るきん。そう思うと金を貸すことでぬくもりはないながらも関係をつづけている昔の芸者仲間たちは、まだ諦めの対象ではなかったのかもしれない。

 彼女はやけぼっくいに点きかけた火を大事に持っておいたはずの田部の写真に移し、彼に抱いていた幻想を燃やし尽くす。酔っぱらってくだをまく田部の口ぶりの情けなさがさらに薪をくべる。田部はおきんに視線を向け続けるけれども、彼女の視線はその関係を閉じることなく外に向いており、彼女だけが降り出した雨に気づく。二人きりの空間に耐えられなくなったおきんは窓を開け空をみつめる。

 『ぬいしゃべ』にも同じように視線を外に向けるシーンがあった。七森くんが白城の部屋を訪れたとき、自然と流れる恋人らしい空気と二人の関係の不和が見ているこちらまでにじみ出てきたころ、彼はベランダに出て街を眺める。まるで違う速さと毅然さでふるまってきた二人が同じ動きをみせた。

 「話そう」と決めた七森君とは違い、おきんさんはまた金になる物件を見にいき、駅で無くした切符を一人で見つけ出す。出している答えは違うけれども、他人との距離感とか他人のなかの自分の存在の置き方を気にする当たり前じゃなさにおいて通じるものがある。やさしいことは無関心と表裏一体ではないかとぬいしゃべのなかで疑問が投げかけられるが、逆におきんのように無関心であることもやさしさの一つかもしれない。

 いろんな花が咲いては枯れて季節が巡っていくように、人の心も移ろって仕方ない。その移ろいは田部がおきんにしたように誰かの期待を裏切ることもあれば、白城が七森くんにしたように前を向かせることもある。ぬいぐるみとしゃべる人たちが過ごす春のさきに、晩菊が咲くような晩夏が待っているのだとしたらちょっと寂しいような気もする。私は、夏が好き。